弁道話(三)問答一 坐禅は仏法の正門#
『弁道話』の問答の部に入り、はじめの三つの問い(問1〜問3)とその答えを読む回です。
原文#
【1】(問1)いまこの坐禅の功徳、高大なることをききをはりぬ。おろかならん人、うたがふていはん、仏法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禅をすすむるや。
【2】(答1)しめしていはく、これ仏法の正門なるをもてなり。
【3】(問2)とふていはく、なんぞひとり正門とする。
【4】(答2)しめしていはく、大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、また三世の如来、ともに坐禅より得道せり。このゆゑに、正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず、西天東地の諸祖、みな坐禅より得道せるなり。ゆゑにいま正門を人天にしめす。
【5】(問3)とふていはく、あるひは如来の妙術を正伝し、または祖師のあとをたづぬるによらん、まことに凡慮のおよぶにあらず。しかはあれども、読経・念仏は、おのづからさとりの因縁となりぬべし。ただむなしく坐してなすところなからん、なにによりてかさとりをうるたよりとならん。
【6】(答3の一)しめしていはく、なんぢいま諸仏の三昧、無上の大法を、むなしく坐してなすところなしとおもはん、これを大乗を謗する人とす。まどひのいとふかき、大海のなかにゐながら水なしといはんがごとし。すでにかたじけなく諸仏自受用三昧に安坐せり。これ広大の功徳をなすにあらずや。あはれむべし、まなこいまだひらけず、こころなほゑひにあることを。
【7】(答3の二)おほよそ諸仏の境界は不可思議なり、心識のおよぶべきにあらず、いはんや不信劣智のしることをえんや。ただ正信の大機のみ、よくいることをうるなり。不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし。霊山になほ退亦佳矣のたぐひあり。おほよそ心に正信おこらば、修行し、参学すべし。しかあらずば、しばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。
【8】(答3の三)又、読経・念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを仏事功徳とおもへる、いとはかなし。仏法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり。又、経書をひらくことは、ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめんとなり。いたづらに思量念度をつひやして、菩提をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。おろかに千万誦の口業をしきりにして、仏道にいたらんとするは、なほこれながえをきたにして、越にむかはんとおもはんがごとし。又、円孔に方木をいれんとせんとおなじ。文をみながら修するみちにくらき、それ医方をみる人の合薬をわすれん、なにの益かあらん。口声をひまなくせる、春の田のかへるの昼夜になくがごとし、つひに又益なし。いはんやふかく名利にまどはさるるやから、これらのことをすてがたし、それ利貪のこころ、はなはだふかきゆゑに。むかしすでにありき、いまのよになからんや。もともあはれむべし。
【9】(答3の四)ただまさにしるべし、七仏の妙法は、得道明心の宗匠に、契心証会の学人あひしたがふて正伝すれば、的旨あらはれて稟持せらるるなり、文字習学の法師のしりおよぶべきにあらず。しかあればすなはち、この疑迷をやめて、正師のをしへにより、坐禅辦道して諸仏の自受用三昧を証得すべし。
現代語訳#
段落番号【1】〜【9】は原文の段落番号と対応します。(問1)などの小見出しは読みやすさのために付けたもので、原文にはありません。( )内は、原文にない語を補ったものです。仏教語・固有名詞は訳さずに残し、必要に応じて段落の後に「語注」として説明しました。
【1】(問1)(問うて言う。)いま、この坐禅の功徳が高く大きいことを聞き終えた。(しかし、)愚かな人は疑って言うであろう、「仏法には多くの門がある。何によって、ひたすら坐禅(だけ)を勧めるのか」と。
語注
- この段には、問2以下の「とふていはく」(問うて言う)にあたる語がないが、内容から問いの段と見て、(問うて言う。)を補った。宗務庁版英訳の注は、冒頭の一文を、後に続く問答の仮想の問者の言葉であろうとする(→読みの分かれるところ)。
- 門:仏法に入る入り口。修行の方法・教えの立て方のこと。
- ひとへに:ひたすら、もっぱら。
【2】(答1)示して言う。これが仏法の正門だからである。
語注
- しめしていはく:(答える者が)示して言う。以下、答の段の書き出しの語。
- 正門:正しい入り口。序の【2】「端坐参禅を正門とせり」を受ける。
【3】(問2)問うて言う。どうして(坐禅)だけを正門とするのか。
語注
- とふていはく:問うて言う。以下、問いの段の書き出しの語。
- ひとり:ただそれだけ、の意。
【4】(答2)示して言う。大師釈尊は、まさしく得道の妙術を正伝し、また三世の如来は、みな坐禅によって得道した。このゆえに、(坐禅が)正門であることを(代々)伝えてきたのである。そればかりではない。西天・東地の諸祖も、みな坐禅によって得道したのである。それゆえ、いま(私は)正門を人天に示すのである。
語注
- 大師釈尊:釈迦牟尼仏。「大師」は大いなる師の意で、仏の尊称。
- 得道:道を得ること。さとりを得ること。
- 妙術:すぐれた方法。序の【1】の「最上無為の妙術」を受ける。
- 正伝:正しく伝えること。
- 三世の如来:過去・現在・未来の三世にわたるすべての仏。「如来」は仏の尊称。
- 西天東地:西天はインド、東地は中国。
- 諸祖:仏法を伝えてきた歴代の祖師たち。
- 人天:人間界と天上界。あらゆる者。
【5】(問3)問うて言う。(坐禅が正門であるのは、)あるいは如来の妙術を正伝し、あるいは祖師の跡をたずねることによる(のであろう)。(それは)まことに凡慮の及ぶところではない。しかしながら、読経・念仏は、おのずからさとりの因縁となるであろう。ただむなしく坐って、何もすることがない(ような坐禅が)、何によって、さとりを得る手だてとなるのか。
語注
- 祖師のあとをたづぬる:歴代の祖師の足跡をたずね、それに従うこと。
- 凡慮:凡夫(ふつうの人)の考え。
- 読経・念仏:経を読むこと、仏を念ずる(仏名をとなえる)こと。
- 因縁:(さとりを生む)原因・きっかけ。
- たより:手だて、よりどころ。
【6】(答3の一)示して言う。あなたがいま、諸仏の三昧、無上の大法を、むなしく坐って何もすることがないと思うならば、これを大乗を謗する人とする。迷いの深いことは、大海の中にいながら水がないと言うようなものである。(坐禅する者は、)すでにかたじけなくも諸仏の自受用三昧に安坐しているのである。これが広大な功徳をなすのでなくて何であろうか。哀れむべきことだ、眼がまだ開かず、心がなお酔っていることは。
語注
- 諸仏の三昧:諸仏が身をおく三昧。ここでは坐禅を指す。
- 無上の大法:この上ない大いなる法。
- 大乗を謗する:大乗(あらゆる者とともにさとりに向かう大いなる教え)をそしること。仏法をそしる重い過ちとされる。
- かたじけなく:おそれ多くも、ありがたくも。
- 自受用三昧:さとりの境地を自らが受けて用いる三昧(本書第一回の語注参照)。
- 安坐:安らかに坐ること。
- ゑひ:酔い。迷いに酔ってさめないこと。
【7】(答3の二)おおよそ諸仏の境界は不可思議であり、心識の及ぶところではない。まして不信・劣智の者が知ることができようか。ただ正信の大機(をそなえた者)だけが、よく(そこに)入ることができるのである。不信の人は、たとえ教えても、受けいれることが難しい。霊山(での釈尊の説法の場)にさえ、「退くもまたよし(退亦佳矣)」(と言われた者)のたぐいがいた。おおよそ、心に正信が起こったならば、修行し、参学するがよい。そうでないならば、しばらくやめるがよい。(そして、)昔から法のうるおいがない(法に恵まれてこなかった)ことをうらみなさい。
語注
- 境界:境地、はたらきの及ぶ世界。
- 心識:心のはたらき、分別する意識。
- 不信劣智:信がなく、智慧の劣った者。
- 正信:正しい信。
- 大機:大いなる機根(教えを受けとめる資質・器量)。
- 霊山:霊鷲山(りょうじゅせん)。釈尊が『法華経』を説いたとされる山。
- 退亦佳矣:「退くもまたよし」。宗務庁版英訳の注によれば、『法華経』方便品の釈尊の言葉で、釈尊が一乗の教えを説こうとしたとき、それを聞かずに座を立ち去った五千人の聴衆(増上慢の者)について言われたもの(経文は「舍利弗。如是増上慢人。退亦佳矣。」)(宗務庁版英訳による)。
- 参学:師について仏道を学ぶこと。
- 法のうるほひ:法の恵み(草木をうるおす雨にたとえる)。宗務庁版英訳の注は、前世において仏法に出会った恵みのことであろうとする。
【8】(答3の三)また、読経・念仏などのつとめによって得られる功徳を、あなたは知っているかどうか。ただ舌を動かし、声を挙げることを仏事の功徳と思っているのは、まことにはかない(むなしい)。仏法になぞらえてみれば、ますます遠く、いよいよはるかである。 また、経書を開くことは、仏が頓・漸の修行の儀則を教えおいたのを、明らかに知って、教えのとおりに修行すれば、必ず証を得させよう、ということである。いたずらに思量念度を費やして、(それを)菩提を得る功徳になぞらえよう(とするため)ではないのである。愚かにも千遍万遍ととなえる口業をしきりに重ねて、仏道に至ろうとするのは、ちょうど、ながえを北に向けておいて、越に向かおうと思うようなものである。また、円い孔に四角い木を入れようとするのと同じである。文を見ながら修するみちに暗いのは、医方(処方の書)を見る人が、薬を調合することを忘れるようなもので、何の益があろうか。口の声を絶え間なくあげているのは、春の田の蛙が昼も夜も鳴くようなもので、結局これもまた益がない。 まして、深く名利に惑わされている者たちは、これらのことを捨てがたい。利貪の心(利益をむさぼる心)がはなはだ深いからである。昔すでに(そういう者が)いた。今の世にいないことがあろうか(、いるのである)。まことに哀れむべきことである。
語注
- つとめ:勤行(ごんぎょう)。日々の読経・礼拝などの行。
- 仏事功徳:仏道の行としての功徳。
- はかなし:むなしく、たよりにならない。
- 擬する:なぞらえる、あてはめる、それと見なす。
- うたた:いよいよ、ますます。
- 経書:経典。
- 頓漸:頓は、すみやかに一挙にさとる教え・修行。漸は、段階を追って次第に進む教え・修行。
- 儀則:のり、作法、きまり。
- 証:さとり。
- 思量念度:あれこれと思いはかり、念じはかること。
- 菩提:さとり。
- 千万誦:千遍・万遍と(経文や仏名を)となえること。
- 口業:口のはたらき、ことば。身・口・意の三業の一つ。
- ながえをきたにして、越にむかはん:「ながえ(轅)」は、牛車などの前に長く突き出た二本の棒。車の向きを示す。越は中国の南方の地。車を北に向けておきながら南の越へ行こうとするように、目的と逆の方へ進むことのたとえ。宗務庁版英訳の注は、中国の成句「北轅適楚」を和文にしたものとし、道元禅師が「生死」の巻でも同じたとえを用いていることを挙げる。
- 円孔に方木:円い穴に四角い木を入れようとしても入らないように、そもそも合わないことのたとえ。
- 医方をみる人の合薬をわすれん:処方の書を読んでも、薬を調合して服さなければ病は治らない。経文を読むだけで、それを修行しないことのたとえ。
- 春の田のかへる:春の田の蛙が昼夜鳴きつづけても何にもならないように、声を出しつづけるだけでは益がないことのたとえ。
- 名利:名誉と利益。
- 利貪:利益をむさぼる心。
- もとも:もっとも、まことに。
- 原文の段落は一つだが、読みやすさのため訳文では三つに改行した。
【9】(答3の四)ただ、まさに知るべきである。七仏の妙法は、得道明心の宗匠に、契心証会の学人が付き従って正伝するとき、的旨があらわれて、稟持されるのであって、文字習学の法師が知り及ぶことのできるものではない。そういうわけであるから、この疑い迷いをやめて、正師の教えによって、坐禅辦道し、諸仏の自受用三昧を証得しなさい。
語注
- 七仏:過去七仏。釈尊と、釈尊以前に世に出たとされる六仏。仏法が仏から仏へと伝わってきたことの源を示す。
- 得道明心:道を得て、心を明らめた(さとった)こと。
- 宗匠:(仏法の)正しい教えを伝える師匠。
- 契心証会:心が(師の心と)かない、(法を)証しさとること。宗務庁版英訳の注は、理解が師の理解と合致した学人の意とする。
- 学人:修行者、学ぶ人。
- 的旨:まさしい旨、核心となる趣旨。
- 稟持:(師から)受けて保ち持つこと。
- 文字習学の法師:経論の文字(文句)を習い学ぶことを専らとする法師(経論を講ずる僧)。
- 疑迷:疑いと迷い。
- 正師:正しい師。
- 坐禅辦道:坐禅して仏道に力を尽くすこと。「辦道」は「弁道」と同じ。
- 証得:証して得ること、さとること。
解説#
はじめに――問答の部へ#
前回の段で、道元禅師は、一人がひとときでも坐る坐禅の功徳が、無数の仏たちの智慧をもってしてもはかりきれないことを示されました。「しるべし、たとひ十方無量恒河沙数の諸仏、ともにちからをはげまして、……あへてほとりをうることあらじ」(本書第二回)。今回の段は、そのすぐあとの「いまこの坐禅の功徳、高大なることをききをはりぬ」(原文【1】)という一文から始まります。
ここから、弁道話は問答の部に入ります。宗務庁版英訳の解題では、弁道話は二つの部分から成るとされています。一つは、坐禅を仏の「自受用三昧」としてたたえ、禅師ご自身の求法の歩みや仏法の伝わりを語る前半の論述、もう一つは、修行をめぐる十八の問答です。前回までに読んできた序と自受用三昧の段が前半にあたり、今回からが後半の十八問答です。宗務庁版英訳でも、この「いまこの坐禅の功徳……」の直前に区切りの印が置かれ、ここから新しいまとまりに入ることが示されています。
問答という書き方は、読む人の側に立った書き方です。前半で禅師は、坐禅の功徳を、ときに壮大な言葉で語られました。けれども、それを聞いた人の胸には、さまざまな疑問が浮かぶはずです。「仏法には多くの門があるのに、なぜ坐禅だけなのか」「ただ坐っているだけで、何になるのか」。禅師は、そうした疑問を先回りして問いの形に立て、一つずつ答えていかれます。宗務庁版英訳の解題も、弁道話は当時の日本の人々に向けて、ふだんの仏教の語りに近いことばで書かれ、当時の日本の仏教でなじみのある主題を多く扱っている、と述べています。問いの一つひとつは、禅師の時代の人々が実際に抱いたであろう疑問であり、同時に、いま坐禅に向かおうとする私たちが抱く疑問でもあります。
今回の段では、十八の問答のうち、はじめの三つを読みます。
- 【1】〜【4】(問1・問2) なぜ坐禅だけをすすめるのか
- 【5】〜【9】(問3、答3の一〜四) ただ坐るだけで何になるのか
問1・問2への答えは短く、きっぱりとしています。問3への答えは長く、四つの段落にわたって、厳しい言葉も交えながら丁寧に語られます。前回の解説で、詳しくは次に扱うと申しあげた、読経・念仏・経書についての言葉も、この問3への答えの中にあります。
【1】〜【4】(問1・問2)なぜ坐禅だけをすすめるのか#
「ききをはりぬ」と「おろかならん人」(【1】)#
「いまこの坐禅の功徳、高大なることをききをはりぬ。おろかならん人、うたがふていはん、仏法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禅をすすむるや」(原文【1】)。
いま、この坐禅の功徳が高く大きいことは聞き終えた。けれども、愚かな人は疑って言うだろう。仏法には多くの門がある、何によってひたすら坐禅だけを勧めるのか、と。
この一文には、問2以下にある「とふていはく」(問うて言う)という書き出しがありません。そのため、誰の言葉として読むかに幅があります。問う人が、自分は聞いて納得したけれども、世の人はこう疑うだろうと、ほかの人の疑いを代わりに尋ねていると読むこともできますし、「おろかならん人」を問う人がへりくだって自分を指す言葉と取ることもできます。冒頭の一文を禅師の語りと取る読みもあります(→読みの分かれるところ)。宗務庁版英訳の注では、冒頭の一文は、つづく問答の仮想の問者の言葉であろうとされています。
どの読みを取るにしても、ここで大切なのは、問いがどこから出てきているかです。問う人は、坐禅の功徳を聞かなかったのではありません。聞いたうえで、なお疑いが残るのです。坐禅の功徳がどれほど大きいと言われても、「では、なぜ坐禅でなければならないのか」という疑いは、そう簡単には消えません。禅師は、その疑いを退けずに、正面から取りあげていかれます。
私たちも、坐禅について話を聞き、本を読み、「なるほど」と思っても、いざ坐ってみると、「本当にこれでよいのだろうか」という思いが湧いてくることがあるかもしれません。そうした疑いを持つことは、恥ずかしいことではありません。この問答は、疑いを抱いた人に向けて、禅師が一つひとつ語りかけてくださる場なのです。
「仏法におほくの門あり」という問いにも、心をとめておきましょう。「門」とは、仏法に入る入り口のことです。仏法の入り口がたくさんあることは、問う人も禅師も認めているところから、問答は始まっています。そのうえで、なぜ「ひとへに」、ひたすら坐禅なのか、と問われているのです。
正門であるから(【2】)#
禅師の答えは、ただ一行です。「しめしていはく、これ仏法の正門なるをもてなり」(原文【2】)。坐禅が仏法の正門だからである、と。
「正門」という言葉は、序にすでに出ていました。「この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり」(本書第一回)。仏の自受用三昧に遊ぶには、端坐参禅を正しい入り口とする、と。問1への答えは、この序の言葉をそのまま受けています。多くの門があることを否定するのではなく、その中で、坐禅が「正しい門」である、と示されるのです。
仏祖が坐禅より得道した(【3】【4】)#
問う人は重ねて尋ねます。「なんぞひとり正門とする」(原文【3】)。どうして坐禅だけを正門とするのか、と。
禅師は答えます。「大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、また三世の如来、ともに坐禅より得道せり。このゆゑに、正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず、西天東地の諸祖、みな坐禅より得道せるなり。ゆゑにいま正門を人天にしめす」(原文【4】)。
ここで禅師が挙げる理由は、理屈ではなく、仏祖の事実です。釈尊も、過去・現在・未来の三世の仏たちも、みな坐禅によって道を得た。インドと中国の祖師たちも、みな坐禅によって道を得た。だから、坐禅が正門であることが代々伝えられてきたのであり、それゆえ、いま正門を人々に示すのだ、と。
「まさしく得道の妙術を正伝し」の一句は、釈尊が得道の妙術を後の世へ正しく伝えたとも、釈尊みずからが過去の仏から妙術を正しく受け伝えたとも読めます(→読みの分かれるところ)。また、「いま正門を人天にしめす」の「しめす」を、禅師ご自身のこととして読むか、仏祖の伝統としていま示されている、と読むかにも幅があります。宗務庁版英訳は、ここを禅師ご自身が教えるという形で訳しています。
どの読みを取っても、答えの骨組みははっきりしています。坐禅が正門であることの根拠は、「仏祖がそのようにして道を得てきた」ということにある。「妙術」は序の冒頭の「最上無為の妙術あり」(本書第一回)を受ける言葉で、前回の段でも、この妙術が師から弟子へと正しく伝えられてきたことが語られていました。ここでも同じことが、「正伝」「あひつたへたる」という言葉で語られています。
この問答の答えは、坐禅が、誰かが工夫して考え出した方法の一つではなく、釈尊から祖師方へ、そして私たちへと手渡されてきた道である、ということを示していると受けとめることができます。私たちが坐蒲の上で姿勢を正すとき、その坐り方は、仏祖が道を得てきた坐り方と、そのままつながっている。そう受けとめるとき、坐る一人ひとりの坐禅は、長い仏祖のつながりの中に置かれることになります。
【5】〜【9】(問3)ただ坐るだけで何になるのか#
問う人の疑い(【5】)#
三つめの問いは、いっそう踏み込んだものです。「あるひは如来の妙術を正伝し、または祖師のあとをたづぬるによらん、まことに凡慮のおよぶにあらず。しかはあれども、読経・念仏は、おのづからさとりの因縁となりぬべし。ただむなしく坐してなすところなからん、なにによりてかさとりをうるたよりとならん」(原文【5】)。
前半は、答2を受けて、仏の妙術を正しく伝え、祖師の跡をたずねるということは、まことに凡人の考えの及ぶところではない、と認める言葉です。この前半を、坐禅が正門である理由を問う人が受けとめた言葉と読むか、妙術の正伝や祖師の跡をたずねることそのものを凡人には及ばないと言っている、と読むかには幅があります。けれども、どちらの読みでも、次の「しかはあれども」で問う人が反論に転じることに変わりはありません。
問う人の言い分は、こうです。読経や念仏ならば、経を読み、仏を念ずるという行いがあるのだから、それ自体がおのずから、さとりのきっかけとなるだろう。けれども、ただ何もせずに坐っているだけのことが、どうしてさとりを得る手だてになるのか。
この疑問は、とても率直で、よくわかる疑問ではないでしょうか。経を読めば、少なくとも経の言葉にふれることができる。仏の名を称えれば、仏を思う心が起こる。それに比べて、坐禅は、外から見れば何もしていないように見えます。「何かをしている」ほうが、さとりに近づけそうに思える。これは、禅師の時代の人々だけでなく、いまの私たちもまた、つい抱いてしまう考え方です。
禅師はこの疑問に、四つの段落を費やして答えられます。
大海のなかにゐながら水なし(【6】答3の一)#
最初の答えは、厳しい言葉で始まります。「なんぢいま諸仏の三昧、無上の大法を、むなしく坐してなすところなしとおもはん、これを大乗を謗する人とす。まどひのいとふかき、大海のなかにゐながら水なしといはんがごとし」(原文【6】)。
あなたは、諸仏の三昧であり、この上ない大いなる法である坐禅を、むなしく坐って何もしないことだと思っている。それは大乗をそしる人である。その迷いの深さは、大海の中にいながら水がないと言うようなものだ、と。
この言葉が厳しいのは、問う人が坐禅を「むなしく坐してなすところなし」、何もしていないことだと見なしたからです。禅師にとって坐禅は、「諸仏の三昧」であり「無上の大法」です。前回の段で見たように、一人の坐禅は法界のすみずみにまで及び、無数の仏たちにもはかりきれない功徳をそなえている。それを「何もしていない」と言うことは、仏の法そのものを軽んじることになる、というのです。
「大海のなかにゐながら水なし」というたとえは、とても印象深いものです。水の中にいる魚が水を知らないように、私たちは、すでに仏法の大海の中にいながら、それに気づかない。序に「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず」(本書第一回)とあったことが思い起こされます。仏法は一人ひとりにゆたかにそなわっているけれども、修行しなければあらわれない。その修行の要である坐禅を「何もしない」と見るのは、まさに大海の中にいて水がないと言うようなものだ、と受けとめることができます。
続いて、「すでにかたじけなく諸仏自受用三昧に安坐せり。これ広大の功徳をなすにあらずや」(原文【6】)とあります。
この一句は、誰が安坐しているのか、という主語の取り方に幅があります(→読みの分かれるところ)。坐禅する者が、すでにかたじけなくも諸仏の自受用三昧に安坐している、と読むこともできますし、宗務庁版英訳のように、諸仏が自受用三昧に安坐した、と読むこともできます。前者なら、坐禅することが、そのまま諸仏の三昧に身をおくことである、という意味になり、後者なら、諸仏がそのように坐って広大な功徳をなしたではないか、という先例を示す意味になります。「かたじけなく」の受けとめ方にも幅があります。
どちらの読みを取っても、禅師が言おうとされていることの向きは一つです。坐禅は、何もしていないのではない。坐禅こそ、諸仏の自受用三昧にほかならず、広大な功徳をなしている。前者の読みを取るなら、この一句は、本巻の後半で示される「仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり」(本書第五回)という言葉とも響き合うでしょう。坐禅を始めたばかりの人の坐禅であっても、それは、さとりを得るための準備ではなく、すでに諸仏の三昧に坐っていることなのだ、と。
「あはれむべし、まなこいまだひらけず、こころなほゑひにあることを」(原文【6】)。哀れむべきことだ、眼がまだ開かず、心がなお酔っていることは、と禅師は結ばれます。厳しい言葉ですが、ここで「あはれむ」と言われていることにも心をとめたいと思います。
日々の坐禅に引き寄せていえば、坐っていて「何もしていないのではないか」「時間を無駄にしているのではないか」という思いがよぎることは、誰にでもあるでしょう。この【6】の言葉は、そうしたときに、坐っていることの意味を静かに思い起こさせてくれます。何かを付け加えなくても、ただ坐っているそのことが、仏の三昧に坐っていることなのだ、と。
正信と「退亦佳矣」(【7】答3の二)#
二つめの段落で、禅師は、なぜ坐禅の功徳が疑われるのか、その根にあるものを示されます。「おほよそ諸仏の境界は不可思議なり、心識のおよぶべきにあらず、いはんや不信劣智のしることをえんや。ただ正信の大機のみ、よくいることをうるなり」(原文【7】)。
諸仏の境地は、思いはかることのできないものであり、私たちの分別する心の及ぶところではない。まして、信がなく智慧の劣った者が知ることはできない。ただ正しい信をそなえた大いなる器量の人だけが、そこに入ることができる、というのです。
ここで「正信」、正しい信が言われていることは大切です。坐禅の功徳は、頭で理解して納得したうえで取り組む、という順序で得られるものではない。諸仏の境界は「心識のおよぶべきにあらず」なのですから、頭で理解しきれるものではありません。だからこそ、まず正しい信が求められるのです。
この言葉を読んで、「では、自分のように信が浅い者は、はじめから入れないのか」と心配になる方もあるかもしれません。けれども、本巻の後半では、「人まさに正信修行すれば、利鈍をわかず、ひとしく得道するなり」(本書第八回)とも示されています。正しい信をもって修行するならば、生まれつきの賢さ・鈍さにかかわりなく、等しく道を得る、と。「大機」とは、生まれつきの特別な才能というよりも、正しい信をもって仏道に向かう、その向き方のことと受けとめてよいのではないでしょうか。
続いて禅師は、「不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし。霊山になほ退亦佳矣のたぐひあり」(原文【7】)と言われます。宗務庁版英訳の注によれば、「退亦佳矣」(退くもまたよし)は『法華経』方便品の釈尊の言葉で、釈尊が一乗の教えを説こうとしたとき、座を立ち去った五千人の聴衆について言われたものです。釈尊の説法の場でさえ、教えを受けとめずに去っていった人々がいた。まして、いま禅師が坐禅の功徳を説いても、受けとめられない人があるのは不思議ではない、ということでしょう。
そして、「おほよそ心に正信おこらば、修行し、参学すべし。しかあらずば、しばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ」(原文【7】)。
心に正しい信が起こったならば、修行し、師について学びなさい。そうでなければ、しばらくやめておきなさい。そして、昔から法の恵みを受けてこなかったことを、うらみなさい、と。
この「しばらくやむべし」は、突き放した言葉のように聞こえるかもしれません。けれども「しばらく」とあるように、永久にやめよ、というのではありません。信の起こらないまま、形だけ無理に続けるよりも、ひとまず立ちどまりなさい、というほどの意味に受けとめることができます。「しばらく」を「当面」と取るか「正信が起こるまでの間」と取るかには、わずかな幅があります。
「むかしより法のうるほひなきことをうらみよ」の「むかしより」も、前世からと取るか、これまでの人生で、と取るかに幅があります。宗務庁版英訳の注は、前世において仏法に出会った恵みのことであろう、としています。また「うらみよ」は、誰かほかの人を恨め、という意味ではなく、自分がこれまで法の恵みに浴してこなかったことを嘆き、省みよ、という意味に受けとめるのが穏やかでしょう。宗務庁版英訳も「悔やむ」に近い言葉で訳しています(→読みの分かれるところ)。
仏法の恵みが雨のように草木をうるおすものだとすれば、その雨に十分に浴してこなかったことを嘆く心は、そのまま、これから法の雨を求める心へと向かっていくはずです。坐禅がどうしても腑に落ちないとき、それを誰かのせいにしたり、坐禅のせいにしたりするのではなく、自分の縁の浅さとして静かに受けとめる。この言葉には、そうした慎みの心が込められているように思います。
読経・念仏・経書について(【8】答3の三)#
三つめの段落は、問3の中心にあたるところです。問う人は「読経・念仏は、おのづからさとりの因縁となりぬべし」(原文【5】)と言いました。禅師はここで、その読経・念仏に正面から答えられます。
「又、読経・念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを仏事功徳とおもへる、いとはかなし。仏法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり」(原文【8】)。
読経・念仏などのつとめによって得られる功徳を、あなたは知っているのか。ただ舌を動かし声を挙げることを仏事の功徳と思っているのは、まことにはかない。仏法になぞらえてみれば、ますます遠く、いよいよはるかである、と。
この段落は、前回の段の【2】「焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず」(本書第二回)と深くかかわる箇所であり、読み方にも幅があります(→読みの分かれるところ)。大きく分けると、次の三つの読み方が考えられます。
一つは、読経・念仏・経書を開くこと、そのものを退けている、とする読み方です。二つめは、行そのものではなく、それを功徳やさとりの因として頼み、修行から切り離してしまう態度を退けている、とする読み方です。三つめは、読経・念仏・看経は否定されないけれども、仏道に入る正門ではない、正門は坐禅である、という主と従の区別を示している、とする読み方です。
ここでは、どれか一つに決めてしまうことはしません。そのかわりに、この段落を読むときの手がかりとなることを、本文の中からいくつか挙げておきます。
一つめは、この段落が何に答えているか、ということです。問う人は、読経・念仏は「おのづから」さとりの因縁になるだろう、と言いました。禅師の「読経・念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや」は、この主張への応答です。つまり、ここでまず問われているのは、読経・念仏によってさとりに至る、という問う人の考えそのものです。
二つめは、禅師が退ける言葉のそれぞれに、行いのしかたを限定する語がついていることです。「ただしたをうごかし、こゑをあぐるを」、「いたづらに思量念度をつひやして」、「おろかに千万誦の口業をしきりにして」、「口声をひまなくせる」。ただ舌を動かし声を挙げるだけのこと、いたずらに思いはかりを費やすこと、愚かにも千遍万遍ととなえつづけること、絶え間なく声をあげつづけること。現代語訳でも、これらの語は省かずに残してあります。禅師の厳しい言葉は、読経・念仏という言葉そのものにではなく、こうした限定の語のついた行い方に向けられている、と読むことができます。
三つめは、経書について、禅師が本来の目的をはっきりと肯定的に述べておられることです。「又、経書をひらくことは、ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめんとなり。いたづらに思量念度をつひやして、菩提をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり」(原文【8】)。
経書を開くのは、仏が頓(すみやかに進む)・漸(段階を追って進む)の修行のきまりを教えおかれたのを、明らかに知り、教えのとおりに修行すれば、必ず証を得させよう、ということなのだ。いたずらに思いはかりを費やして、それを菩提を得る功徳になぞらえよう、というためではない、と。
ここでは、経書を開くことが、はっきりと「かならず証をとらしめん」ためのものとして語られています。経典は、修行の道しるべとして仏が残してくださったものであり、その教えのとおりに修行するとき、必ず証に至る。退けられているのは、経を読むことそのものではなく、読むだけで修行しないこと、経の文句をあれこれ思いはかることを功徳と思いなすこと、と読めるのです。
このことは、続く比喩からも読みとれます。「文をみながら修するみちにくらき、それ医方をみる人の合薬をわすれん、なにの益かあらん」(原文【8】)。経の文を読みながら、修行の道に暗いのは、処方の書を読んでいながら、薬を調合することを忘れるようなもので、何の益があろうか、と。処方の書を読むこと自体が悪いのではありません。読んだとおりに薬を調合し、服さなければ、病は治らない。経を読むことも、その教えのとおりに修行してこそ、はじめて益がある、ということでしょう。
四つめに、しかし、これとは逆の向きの手がかりもあることを、あわせて見ておかなければなりません。「仏法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり」という言葉は、たいへん強い言い方です。舌を動かし声を挙げることを仏事の功徳と思うことは、仏法からますます遠く、いよいよはるかだ、と。この言葉は、読経・念仏そのものを仏法から遠いものとする読み方の根拠にもなりえます。「擬する」の取り方によっても、この一句の意味あいは少し変わります(→読みの分かれるところ)。「ながえをきたにして、越にむかはん」、つまり車を北に向けておきながら南の越に向かおうとするようなもの、「円孔に方木をいれん」、円い穴に四角い木を入れようとするようなもの、「春の田のかへるの昼夜になくがごとし」、というたとえも、目的と手だてが食い違っていることを、くり返し強い調子で示しています。宗務庁版英訳の注によれば、「ながえをきたにして……」は中国の成句を和文にしたもので、禅師は「生死」の巻でも同じたとえを用いておられます。
こうして見てくると、この段落は、どの読み方を取るにしても、一つのことをはっきりと示していると言えるでしょう。読経や念仏を、それだけでおのずからさとりに至る手だてと見なし、修行から切り離して、声を出すこと、数を重ねること自体に功徳を求める。その向きが、仏道からは逆の方向を向いている、ということです。前回の段の【2】の解説でも、「焼香や読経をするかしないか」という外から見た形の問題として読むよりも、「何を仏道の根本として坐るのか」という心の向きの問題として読むとき、禅師の言葉の重みがよく伝わってくる、と申しあげました。この【8】も、同じように受けとめることができるように思います。そのうえで、行そのものの位置づけについては、読みの幅を残しておきます。
宗門の寺院で実際にどのような行持が営まれているかは、この段の本文から論じられることではありませんので、ここでも立ち入りません。ただ、私たちが日々の暮らしの中で経を手にとり、声に出して読むことがあるとすれば、この段落は、その向き合い方を問いかけてくれるでしょう。何遍読んだかを数えることよりも、読んだ言葉を、どう生きるか。処方の書を読んだら、薬を調合して服するように、経の言葉を、坐ることと暮らすことの中で行じていく。「文をみながら修するみちにくらき」ことのないように、という禅師の言葉は、経を読む人に向けられた、厳しくも親切な戒めとして響いてきます。
名利にまどわされる人々(【8】結び)#
この段落は、次のように結ばれます。「いはんやふかく名利にまどはさるるやから、これらのことをすてがたし、それ利貪のこころ、はなはだふかきゆゑに。むかしすでにありき、いまのよになからんや。もともあはれむべし」(原文【8】)。
まして、名誉や利益に深く惑わされている者たちは、これらのことを捨てがたい。それは、利貪の心、つまり利益をむさぼる心がはなはだ深いからである。昔すでにそういう者がいた。今の世にいないことがあろうか。まことに哀れむべきことである、と。
ここで禅師が「捨てがたし」と言われているのは、声を挙げることや千万遍となえることを功徳と思い、それを頼みとする、そうしたあり方でしょう。それが名誉や利益と結びつくとき、いっそう手放しがたくなる。宗務庁版英訳の注も、この「やから」がどのような人々を指すかについては、推測の形で述べるにとどめています。ここでも、特定の誰かを思い浮かべるよりも、「むかしすでにありき、いまのよになからんや」という言葉を、自分自身に向けられた問いとして受けとめたいと思います。修行を、人から認められるためや、何かを得るための手だてにしてしまう心は、いつの時代の誰の中にも起こりうるものだからです。
正師について正伝する(【9】答3の四)#
問3への答えは、次の段落で結ばれます。「ただまさにしるべし、七仏の妙法は、得道明心の宗匠に、契心証会の学人あひしたがふて正伝すれば、的旨あらはれて稟持せらるるなり、文字習学の法師のしりおよぶべきにあらず」(原文【9】)。
ただ、まさに知るべきである。七仏から伝わる妙法は、道を得て心を明らめた師匠に、心がかない証をさとった弟子が付き従って正しく伝えるとき、そのまことの核心があらわれ、受け保たれるのである。文字を習い学ぶことを専らとする法師の、知り及ぶところではない、と。
「七仏」とは、釈尊と、釈尊以前に世に出たとされる六仏です。仏法が仏から仏へと伝わってきた、その源を示す言葉です。その妙法は、師と弟子とが向き合い、弟子が師に付き従うことによって正しく伝えられる。そのとき、法の核心が「あらはれて」、受け保たれていく。「正伝すれば」を「正伝するとき」と取るか「正伝するならば」と取るか、「稟持せらるる」の主語をどう取るか、「契心証会」を師の心にかなうと取るか法にかなうと取るかには、それぞれ幅があります(→読みの分かれるところ)。けれども、法が文字の上だけでなく、師と弟子の間で、人から人へ手渡されていく、という大きな趣旨は変わりません。
序で禅師は、ご自身の求法の歩みを、「つひに太白峰の浄禅師に参じて、一生参学の大事ここにをはりぬ」(本書第一回)と記されました。禅師ご自身が、正師にめぐり会い、その師に付き従って仏法を受けられたのです。【9】の言葉は、その禅師ご自身の歩みに裏打ちされた言葉として読むことができます。師から弟子へ正しく伝わる仏法ということを考えるとき、その根にあるのも、この「宗匠」と「学人」との関係だと言えるでしょう。
「文字習学の法師」については、経論の文字を学ぶことを専らとする僧一般を指すと読むことも、禅師の当時の教学のあり方を念頭に置いていると読むこともでき、読みには幅があります(→読みの分かれるところ)。この解説では、特定の宗派や人物を指すものとして読むことはしません。ここで対比されているのは、「誰が」ということよりも、「どのように」仏法を受けるか、ということだと受けとめておきたいと思います。文字を学んで理解することと、師に付き従い、身をもって法を受けることとの対比です。
これは、文字や経典を軽んじることとは違います。【8】で見たように、禅師は経書を開くことの本来の目的を肯定的に述べておられました。また、この段のすぐあとに続く問答では、「いはんや広大の文字は万象にあまりてなほゆたかなり」(本書第四回)とも言われています。退けられているのは、文字の学びだけで法の核心に至れると考えることであって、文字そのものではない、と読むことができるでしょう。
そして、問3への答えは、次の一文で結ばれます。「しかあればすなはち、この疑迷をやめて、正師のをしへにより、坐禅辦道して諸仏の自受用三昧を証得すべし」(原文【9】)。
だから、この疑いと迷いをやめて、正しい師の教えによって、坐禅し仏道に力を尽くして、諸仏の自受用三昧を証しなさい、と。
ここで、話は序の最初の主題に帰ってきます。序では、仏から仏へ伝わる法の根本が「自受用三昧」と示され、「端坐参禅を正門とせり」(本書第一回)と言われていました。問1から問3までの問答は、「なぜ坐禅なのか」「ただ坐るだけで何になるのか」という疑いを一つずつたどりながら、最後に、「坐禅辦道して諸仏の自受用三昧を証得すべし」という、序と同じ一点へと読む人を導いていきます。
「正師のをしへにより」という言葉にも、心をとめておきましょう。本巻の後半でも、「ただ正師の教道をたづぬべし」(本書第七回)と重ねて示されています。坐禅は、自分一人の思いつきで坐るものではなく、正しい師の教えによって坐るものです。坐り方の一つひとつ、姿勢の整え方、心の置き方を、正しく伝わってきたとおりに学び、そのとおりに坐る。そのことが、【4】で見た、仏祖が坐禅によって道を得てきたつながりの中に、自分の坐禅を置くことになるのです。
むすびに――疑いをもつ人への答え#
この段で読んだ三つの問答を、あらためて振り返ってみましょう。
問1・問2では、「仏法には多くの門があるのに、なぜ坐禅だけなのか」と問われ、禅師は、坐禅が仏法の正門だからであり、釈尊も三世の仏も、インド・中国の祖師方も、みな坐禅によって道を得てきたからだ、と答えられました(【1】〜【4】)。
問3では、「読経・念仏ならさとりのきっかけになるだろうが、ただ坐っているだけで何になるのか」と問われ、禅師は四つの段落にわたって答えられました。坐禅は何もしていないのではなく、諸仏の三昧であり、広大な功徳をなしていること(【6】)。その功徳は分別の心では知りえず、正しい信によって入るものであること(【7】)。読経・念仏・経書について、ただ声を挙げ、いたずらに思いはかり、数を重ねることを功徳と思うのは、仏道とは逆の方を向いていること、そして経書は教えのとおりに修行して証に至るためのものであること(【8】)。仏法は正師と学人との間で正しく伝わるものであり、正師の教えによって坐禅し、諸仏の自受用三昧を証しなさい、ということ(【9】)。
この段を読んで印象に残るのは、禅師の言葉の厳しさかもしれません。「大乗を謗する人」「まなこいまだひらけず」「いとはかなし」。けれども、その厳しさは、問う人を退けるためのものではありません。禅師は、疑う人の問いを一つひとつ取りあげ、答えを重ね、最後に「この疑迷をやめて」と、坐禅へと招いておられます。
私たちもまた、坐禅に向かうとき、「ただ坐るだけで何になるのか」という思いを、どこかに抱えているかもしれません。その思いを無理に打ち消す必要はありません。この問答は、そうした疑いを抱く私たちに向けて書かれたものでもあるのです。そのうえで、禅師の答えに耳を傾けるとき、坐ることは「何もしないこと」ではなく、仏祖が歩んできた正門を歩むこと、諸仏の三昧に坐ることとして、少しずつ見えてくるのかもしれません。
そして、この段の言葉は、坐蒲の上だけのことではありません。経を読むときには、読んだ言葉をどう生きるかを思う。何かを学ぶときには、知ることで終わらせず、行うことへとつなげる。人から認められるためではなく、ただ仏道のために行う。医方を読んで薬を調合するように、教えを暮らしの中で行じていく。その一つひとつが、この問答の答えを、日々の暮らしの中で確かめていくことになるのだと思います。
次の問4では、当時の日本に伝わっていた教えと比べて、なぜこの修行をすすめるのか、という問いが立てられます。問答は、さらに続いていきます。
読みの分かれるところ#
この回の範囲にも、読み方が一つに定まらない言い回しがいくつもあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。
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「いまこの坐禅の功徳、高大なることをききをはりぬ。おろかならん人、うたがふていはん」【1】
問1には、問2以下にある「とふていはく」がないため、誰の言葉かに幅があります。問う人が「愚かな人はこう疑うだろう」とほかの人の疑いを代わりに尋ねていると読むほか、「おろかならん人」を問う人のへりくだった自称と取る読み、冒頭の一文を禅師の語りと取る読みがあります。宗務庁版英訳の注は、冒頭の一文を、続く問答の仮想の問者の言葉であろうとしています。 -
「大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し」【4】
釈尊が得道の妙術を後の世へ正しく伝えた、と読むことも、釈尊みずからが過去の仏から妙術を正しく受け伝えた、と読むこともできます。「まさしく」を「確かに」と取るか「直接に」と取るかにも幅があります。宗務庁版英訳は「まさしく」を「確かに」の方向に取り、「正伝」を「直接に伝えた」と訳しています。 -
「すでにかたじけなく諸仏自受用三昧に安坐せり」【6】
安坐しているのが誰かによって意味が変わります。坐禅する者がすでに諸仏の自受用三昧に安坐している、と読めば、坐禅そのものが諸仏の三昧に身をおくことだという意味になります。諸仏が自受用三昧に安坐した、と読めば、諸仏の坐禅が広大な功徳をなした先例を示す意味になり、宗務庁版英訳はこちらの方向で訳しています。「かたじけなく」も、「ありがたくも」「幸いにも」など受けとめ方に幅があります。 -
「しばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ」【7】
「むかしより」を前世からと取るか、これまでの人生でと取るかで幅があります。宗務庁版英訳の注は、前世において仏法に出会った恵みのことであろうとしています。「うらみよ」は「嘆け」とも「悔やめ・省みよ」とも取れ、宗務庁版英訳は「悔やむ」に近い語で訳しています。「しばらく」も、「ひとまず」と取るか「正しい信が起こるまでの間」と取るかで、わずかな幅があります。 -
読経・念仏・経書についての言葉の趣旨【8】
大きく三つの読み方が考えられます。一つは、読経・念仏・経書を開くことそのものを退けている、とする読み方です。二つめは、行そのものではなく、それをさとりの因として頼み、修行から切り離してしまう態度を退けている、とする読み方です。三つめは、読経・念仏・看経は否定されないが仏道に入る正門ではなく、正門は坐禅である、という主と従の区別を示している、とする読み方です。退ける言葉に「ただ」「いたづらに」「おろかに」などの限定の語がつき、経書を開く本来の目的が肯定的に述べられていることは二つめ・三つめの読みの手がかりとなり、「仏法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり」の強い言い方は一つめの読みの手がかりにもなります。 -
「仏法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり」【8】
「擬する」を「なぞらえる・それを仏法と見なす」と取れば、舌を動かすことを仏法と見なすのは遠い、という意味になります。「比べる・照らし合わせる」と取れば、仏法の基準で測れば遠い、という意味になります。現代語訳は前者で置き、宗務庁版英訳は後者の方向で訳しています。 -
「七仏の妙法は、……正伝すれば、的旨あらはれて稟持せらるるなり」【9】
「正伝すれば」を「正伝するとき」と取るか「正伝するならば」と取るか、「稟持せらるる」を的旨が学人に受け保たれると取るか、師資の間で受け継がれると取るかに幅があります。「契心証会」も、心が師の心にかなうと取るか、法にかなうと取るか、「契心」と「証会」を並べたものと取るかで読みが分かれます。宗務庁版英訳の注は、理解が師の理解と合致した学人の意としています。 -
「文字習学の法師」【9】
経論の文字を学ぶことを専らとする僧一般を指すと読むことも、禅師の当時の教学のあり方を念頭に置いていると読むこともできます。この解説では、特定の宗派や人物を指すものとしては読んでいません。
参考#
- 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第一「辦道話」
- 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. VII(Sōtō Zen Text Project、2023)
- 語句の出典・典拠(「退亦佳矣」「ながえをきたにして」など)、本巻の構成についての説明と、「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注・解題によります。