摩訶般若波羅蜜(一)心経の般若#
『摩訶般若波羅蜜』の巻頭、『般若心経』の句を受けて、般若を「一枚、二枚」と数えあげ、最後に行・住・坐・臥へといたる一段落を読む回です。
原文#
正法眼蔵第二 摩訶般若波羅蜜
【1】觀自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色・受・想・行・識なり、五枚の般若なり。照見、これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり。色是色なり、空即空なり。百草なり、萬象なり。般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼・耳・鼻・舌・身・意・色・聲・香・味・触・法、および眼・耳・鼻・舌・身・意識等なり。また四枚の般若あり、苦・集・滅・道なり。また六枚の般若あり、布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若なり。また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去・現在・末来なり。また般若六枚あり、地・水・火・風・空・識なり。また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行・住・坐・臥なり。
現代語訳#
原文は【1】の一段落です。現代語訳では、読みやすさのため、内容の切れ目によって【1-1】【1-2】【1-3】の三つに分けました。この区切りは原文にはありません。( )内は、原文にない語を補ったもの、または直前の語の言い換えです。仏教語は訳さずに残し、必要に応じて段落の後に「語注」として説明しました。五蘊・十二入など数を挙げる語は、原文の列挙に即して何に当たるかを示しました。「五枚の般若」「十二枚」などの「枚」は、受けとめ方が分かれうるので、訳文では原文の語をそのまま残しました(→読みの分かれるところ)。
【1-1】観自在菩薩が深く般若波羅蜜多を行ずる時とは、渾身(全身まるごと)の「照見五蘊皆空」(五蘊はみな空であると照らし見ること)である。五蘊とは色・受・想・行・識であり、(それは)五枚の般若である。照見(照らし見ること)、これが般若である。
語注
- 『心経』の冒頭の句の読み替え:この一文は、『般若心経』(以下『心経』)の冒頭「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空」をふまえ、道元禅師が和漢まじりの文に言い換えたもの(宗務庁版英訳による)。
- 経文の通常の読み:「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆空なりと照見す」。観自在菩薩が深い般若波羅蜜多を行じていた時に、五蘊がみな空であると照らし見た、という(時を示す句+その時の出来事)の文である。
- 禅師の言い方:「……行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」。「時は……なり」と、「行深般若波羅蜜多時」そのものを主題にすえ、それが「渾身の照見五蘊皆空」である、と言い切る形に組みかえている。「照見五蘊皆空」も、ひとまとまりの語(名詞句)として扱われている。訳文はこの形に従い、「時とは……である」と訳した。
- 観自在菩薩:観世音菩薩(観音菩薩)の別名。『心経』で般若波羅蜜多を行ずる主として説かれる菩薩。
- 般若:智慧。ものごとのありのままを見きわめる、仏の智慧。訳さずに残した。
- 般若波羅蜜多:般若波羅蜜と同じ。智慧の完成、彼岸に到る智慧。巻名「摩訶般若波羅蜜」の「摩訶」は「大いなる」の意。
- 行深:深く行ずる。ここでは「深般若波羅蜜多を行ずる」(深い般若波羅蜜多を行ずる)の意。
- 渾身:全身、からだ全体。ここでは観自在菩薩の全身をあげての、の意に取った(→読みの分かれるところ)。
- 照見:照らし見ること、明らかに見とおすこと。
- 五蘊:人間の身心をはじめ、あらゆるものを成りたたせている五つの集まり。原文の列挙の色・受・想・行・識の五つ。色=形あるもの・物質、受=感受、想=表象・思い浮かべること、行=意志などのはたらき、識=認識・識別。
- 空:ものごとには固定した実体がない、ということ。
- 五枚の般若:五蘊の五つが、それぞれ般若である、ということ(宗務庁版英訳による)。経文では五蘊は「照見」されて空とされるものだが、禅師はその五蘊そのものを「五枚の般若」と言う。
- 枚:紙や板など平たいものを一つ二つと数える語。ここでは般若を数える語として用いられている。訳文では原文の語を残した(→読みの分かれるところ)。
- 照見、これ般若なり:照見すること(照らし見るはたらき)がそのまま般若である。経文では照見は般若波羅蜜多を行ずる時の出来事として説かれるが、禅師はそれを般若そのものと言う。
【1-2】この宗旨(根本の趣旨)が説き開かれ、現れ出て言うには、「色即是空」(色はそのまま空である)であり、「空即是色」(空はそのまま色である)である。色はこれ色であり、空はそのまま空である。(それは)百草であり、万象である。般若波羅蜜の十二枚、これが十二入である。
語注
- 宗旨:根本の趣旨、かなめの教え。ここでは前文までに言われた般若の趣旨を指すと取った(→読みの分かれるところ)。
- 開演:説き開き、のべ広めること。
- 現成:現れ出て、そのまま成りたっていること。道元禅師が多く用いる語。
- この宗旨の開演現成するにいはく:宗務庁版英訳は「この宗旨の開演」を「現成する」の主語に取り、注で、「この」の指すものは確かでなく、単に「(経が)般若の教えを説くところに、こう言う」の意かもしれない、とする。
- 色即是空、空即是色:『心経』の句。「色即ち是れ空、空即ち是れ色」と読み、色(形あるもの)はそのまま空であり、空はそのまま色である、という意。ここでは経の句に「なり」を添えてそのまま引いている(宗務庁版英訳による)。
- 色是色なり、空即空なり:経の句ではなく、禅師の言い方。経の「色即是空・空即是色」が色と空とを互いに結びつけて言うのに対し、ここでは「色は色」「空は空」と、それぞれをそれ自身として言う。また、前句は「色是色」(是)、後句は「空即空」(即)と、経の「即是」を分けて用いている。訳文は「これ」「そのまま」と訳し分けた(→読みの分かれるところ)。
- 百草・萬象:ともに、世のあらゆるもの、の意の常用の語(宗務庁版英訳による)。百草は数多くの草、万象はあらゆる形あるもの。
- 百草なり、萬象なり:主語が示されていない。宗務庁版英訳は主語を「色」と「空」に取るが、注で、直前の「空」とも取れるとする。訳文は(それは)と補うにとどめた(→読みの分かれるところ)。
- 般若波羅蜜十二枚:般若波羅蜜が十二枚あること。この句では「般若波羅蜜」が先、「十二枚」が後に置かれている(【1-3】の「十八枚の般若」などと語順が異なる。→読みの分かれるところ)。
- 十二入:十二処ともいう。六つの感覚・認識の器官(六根)と、その対象(六境)とをあわせた十二(宗務庁版英訳による)。ここでは列挙はないが、【1-3】の「十八枚の般若」の列挙の前半十二項、眼・耳・鼻・舌・身・意(六根)と色・声・香・味・触・法(六境)に当たる。
【1-3】また十八枚の般若がある。眼・耳・鼻・舌・身・意、色・声・香・味・触・法、および眼・耳・鼻・舌・身・意の識などである。また四枚の般若がある。苦・集・滅・道である。また六枚の般若がある。布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若である。また一枚の般若波羅蜜が、而今(いま)現成している(現れ出て、成りたっている)。(それは)阿耨多羅三藐三菩提である。また般若波羅蜜が三枚ある。過去・現在・未来である。また般若が六枚ある。地・水・火・風・空・識である。また四枚の般若が、世の常に(ふだん、いつも)行われている。行・住・坐・臥である。
語注
- 十八枚の般若(十八界):原文は「十八枚の般若」とだけ言い、「十八界」の語はない。列挙が十八界(認識の成りたちにかかわる十八の要素)に当たる(宗務庁版英訳による)。原文の列挙に即して言えば、
- 眼・耳・鼻・舌・身・意=六根(六つの感覚・認識の器官)
- 色・声・香・味・触・法=六境(六根それぞれの対象。色=形や色、声=音、香=におい、味=あじ、触=触れられるもの、法=心で思われるもの)
- 眼・耳・鼻・舌・身・意識等=六識(六根が六境に向かって起こる六つの認識。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)
- の6+6+6=18。前半の十二(六根+六境)が【1-2】の十二入に当たる。宗務庁版英訳の注は、この句と前の十二入の句が『心経』の六根・六境・十八界を挙げる箇所をふまえるとする。
- 眼・耳・鼻・舌・身・意識等:「識」を六つすべてにかけて、眼識から意識までの六識と取った。「等」は「など」と訳したが、六識をまとめて示す語と取ることもできる。
- 四枚の般若(四諦):苦・集・滅・道の四つ。仏教の根本の教えである四諦(四つの聖なる真理)のこと(宗務庁版英訳による)。苦=この世の生は苦である、集=苦には原因(集まり起こるもの)がある、滅=苦の滅した境地がある、道=苦を滅する道がある。
- 六枚の般若(六波羅蜜):布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若の六つ。菩薩の修める六つの行、六波羅蜜(六度)のこと(宗務庁版英訳による)。布施=ほどこし、浄戒=戒をたもつこと、安忍=たえしのぶこと、精進=つとめはげむこと、静慮=禅定、心をしずめること、般若=智慧。六つめに般若そのものが数えられている点に注意。
- 一枚の般若波羅蜜:(数えれば)一枚である般若波羅蜜。他の項が二つ以上を列挙するのに対し、ここだけは一つで、それが阿耨多羅三藐三菩提である、と言う。
- 而今:まさに今、いまここ。道元禅師が多く用いる語。
- 而今現成せり:宗務庁版英訳の注は、「一つの般若波羅蜜が、ここに(『心経』に)説き示されている」の意に取るのがおそらく妥当とし、三世の諸仏が般若波羅蜜多によって阿耨多羅三藐三菩提を得る、と説く『心経』の句を挙げる。訳文は「いま現成している」と原文の語に即して訳した(→読みの分かれるところ)。
- 阿耨多羅三藐三菩提:この上なく正しい完全なさとり。仏のさとり(宗務庁版英訳による)。
- 般若波羅蜜三枚(三世):過去・現在・未来の三つ。あわせて三世という。
- 末来:原文は「末来」。過去・現在と並ぶ三世の一つであるから、「未来」の意に取り、訳文では「未来」とした。宗務庁版英訳も「未来」の意に訳している。
- 般若六枚(六大):地・水・火・風・空・識の六つ。世界を成りたたせる六つの要素、六大のこと(宗務庁版英訳による)。地=堅さ、水=うるおい、火=熱、風=動き、空=空間、識=認識のはたらき。ここでの「空」は空間の意で、【1-1】【1-2】の「空」(実体のないこと)とは別の語義である。
- 四枚の般若(四威儀):行・住・坐・臥の四つ。歩くこと・とどまる(立つ)こと・坐ること・臥す(横になる)こと。身のふるまいの四つのかたち、四威儀のこと(宗務庁版英訳による)。日常の起居動作すべてを言う語としても用いられる。
- よのつねにおこなはる:世の常に行われる。ふだん、いつも行われている、の意に取った(→読みの分かれるところ)。
- 列挙の順と『心経』:宗務庁版英訳の注は、十八界と一枚の般若波羅蜜には『心経』の該当句を示すが、六大と四威儀には『心経』の句を示さず、語の説明にとどめる。
解説#
はじめに――『摩訶般若波羅蜜』という巻#
本書では、ここから『正法眼蔵』の二つめの巻、「摩訶般若波羅蜜」を読んでいきます。本山版では、巻のはじめに「正法眼蔵第二 摩訶般若波羅蜜」とあり、第二巻に置かれています。
巻の終わりには、次のような奥書があります。
「爾時天福元年夏安居日、在観音導利院示衆」(本巻第三回)。
天福元年の夏安居の日に、観音導利院において大衆に示した、という記録です。夏安居とは、夏のあいだ修行者が一つところに集まり、外に出ずに修行に専念する期間のことです。この巻は、その安居の修行のなかで示されたものだということになります。なお、その次の行には「寛元二年甲辰春三月二十一日、在越宇吉峰精舎侍者寮書写之」(本巻第三回)と、のちに越宇の吉峰精舎の侍者寮で書き写したという記録も添えられています。
宗務庁版英訳の解題では、この巻について、次のようなことが述べられています。奥書によれば、この巻は伝統的な『正法眼蔵』の諸本のうちで、年記のある最も早い巻であること。六十巻本・七十五巻本でも第二に置かれ、九十五巻本の本山版でも第二であること。1233年の夏安居に、深草にあった道元禅師の住まい、観音導利院(すなわち興聖寺)で撰述されたとされること。そして内容は、『般若心経』の解釈から始まり、玄奘訳の『大般若波羅蜜多経』(『大般若経』)からの引用へと進んでいくこと。中国の禅の師たちの語録や因縁話にはまだ立ち入らず、禅の言葉として取りあげられるのは、亡くなってまもない先師、如浄禅師の偈一つだけであること。
その如浄禅師の偈は、この巻の後半に「先師古仏云、渾身似口掛虚空、不問東西南北風、一等為他談般若、滴丁東了滴丁東」(本巻第三回)として出てきます。本師如浄禅師の言葉が、巻全体の中でただ一つ引かれる禅の言葉だということは、この巻を読み進めるうえで心にとめておいてよいことでしょう。
本書でこの前に読んできた「弁道話」は、奥書に「寛喜辛卯中秋日 入宋伝法沙門道元記」(『弁道話』第九回)とあります。宗務庁版英訳の解題も、弁道話を1231年のものとしています。そうすると、「摩訶般若波羅蜜」はそのおよそ二年後に示されたことになります。なお、弁道話は本山版では第一巻に置かれていますが、宗務庁版英訳では、七十五巻本の巻々とは別に、補遺の巻(第7巻)に収められています。解題は「伝統的な諸本」が具体的にどの本を指すかを述べていません。本山版には、年記の早い弁道話が第一巻として収められていますから、本山版を底本とする本書から見れば、年記のうえでは弁道話のほうが早いことになります。解題の言い方は、弁道話を含まない七十五巻本などの諸本を念頭に置いたものと受けとめておくのがよいでしょう。
弁道話では、坐禅が仏法の正門であることが、十八の問答を通して丁寧に説かれていました。その弁道話の中にも、「般若」という言葉は、大切なところに出てきていました。序の段では、邪師にまどわされて正しい理解を覆われてしまうならば、「なにによりてか般若の正種を長じ、得道の時をえん」(『弁道話』第一回)、何によって般若の正しい種を育て、道を得る時を得られようか、と言われていました。坐禅の功徳を説く段では、坐禅する人のもとで、あらゆるものが「究竟無為の深般若を開演す」(『弁道話』第二回)、きわまりない深い般若を説き開く、と示されていました。そして問答の終わり近くでは、わが国の人が仏法をさとれるのかという問いに、「いはんや人みな般若の正種ゆたかなり」(『弁道話』第八回)と答えておられました。
弁道話では、般若は、坐禅辦道のなかで育ち、開かれていくものとして語られていました。その般若そのものを正面から主題として取りあげるのが、この「摩訶般若波羅蜜」の巻だと言うことができるでしょう。「摩訶」は「大いなる」、「般若」は智慧、「波羅蜜」は(智慧の)完成、彼岸に到ること、と現代語訳の語注で説明しました。巻の名は、「大いなる般若波羅蜜」という意味になります。
今回は、この巻の冒頭の一段落を読みます。現代語訳では、内容の切れ目によって、次の三つに分けました。
- 【1-1】 『心経』の冒頭の句と五蘊――「五枚の般若」
- 【1-2】 色即是空・空即是色から、十二入まで
- 【1-3】 「また……枚の般若あり」の列挙――最後は行・住・坐・臥
短い段落ですが、ここには、この巻の、そしてこののち『正法眼蔵』全体を貫いていく道元禅師のものの言い方が、すでにはっきりと現れています。それは、般若を「一枚、二枚」と数えること、そして、私たちの身心とその見るもの聞くもの、さらには毎日の立ち居ふるまいまでを、そのまま「般若」と言いきることです。一つひとつ、ゆっくり見ていきましょう。
【1-1】「行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」――心経の冒頭句と五蘊#
経の句を、禅師の言葉に組みかえる#
巻は、いきなり次の一文から始まります。
「觀自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」(原文【1】)。
宗務庁版英訳の注では、この一文は、『般若心経』の冒頭の一文を、道元禅師が漢文と和文をまじえて言い換えたもの、とされています。経の句は、ふつうには「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆空なりと照見す」と読まれます。観自在菩薩が深い般若波羅蜜多を行じていた時に、五蘊がみな空であると照らし見た、という文です。
ところが禅師は、この経の句をそのままには読まれません。「行深般若波羅蜜多時は」と、「時」に「は」をつけて、それを文の主題にすえます。そして、その「時」が「渾身の照見五蘊皆空なり」である、と言いきるのです。
経のふつうの読みでは、「深般若波羅蜜多を行ずる時」は、いわば舞台であり、その舞台の上で「照見」という出来事が起こります。時があって、その時のなかで、菩薩が五蘊を照らし見る。けれども禅師の言い方では、般若を行ずるその時が、そのまま、からだまるごとの照見である、ということになります。行ずることと、照らし見ることとが、前後に分かれていません。
この一文の組み立てをどう受けとめるかには、幅があります(→読みの分かれるところ)。「行深般若波羅蜜多時」を主題、「渾身の照見五蘊皆空」をその述語と取る読み方(訳文はこれに従いました)もあれば、「渾身」を実質上の主語に取って、(菩薩の)全身が照見五蘊皆空である、と読む読み方もあります。宗務庁版英訳は、菩薩が深い般若波羅蜜多を行じた時、それは「彼の全身が」五蘊皆空と照見することであった、という形に訳しています。
「渾身」――からだまるごとの照見#
ここで、禅師が経の句に一語だけ加えておられることに、心をとめたいと思います。それが「渾身」です。経の句には、この語はありません。
「渾身」は、全身、からだ全体ということです。「照見」、照らし見るというと、私たちはふつう、目で見ること、あるいは心でものを見とおすことを思い浮かべます。見るのは目であり、頭であり、心である、と。けれども禅師は、それを「渾身の」照見だと言われます。目だけで見るのでも、頭だけで考えるのでもない。からだまるごとが、照らし見ることそのものになっている、と受けとめることができるでしょう。
この「渾身」を、観自在菩薩の全身と取るか、それとも菩薩に限らず、まるごと全体ということと取るかにも、読みの幅があります(→読みの分かれるところ)。訳文では、ひとまず観自在菩薩の全身をあげての、という意に取りました。
なお、この「渾身」という語は、この巻の後半、さきに挙げた如浄禅師の偈にも「渾身似口掛虚空」と出てきて、禅師はそれを受けて「渾身般若なり」と言っておられます(本巻第三回)。その箇所は後の回で読むことになりますが、巻の冒頭と、ただ一つ引かれる先師の偈とに、同じ「渾身」の語が出てくることは、覚えておいてよいでしょう。
坐禅をする私たちにとって、この「渾身」という言葉は、身近な言葉として響くのではないでしょうか。弁道話の冒頭には、「この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり」(『弁道話』第一回)とありました。坐禅は、頭の中で何かを考えたり、心の中で何かを観じたりすることに先立って、まず、からだをもって坐ることです。足を組み、背筋を伸ばし、手を組み、呼吸を調える。坐禅は、からだまるごとで行うものです。禅師がここで「照見」に「渾身の」という一語を添えておられることを、坐禅をからだまるごとで坐るということと重ね合わせて受けとめることもできるように思います。もちろん、本文はここで坐禅について語っているわけではありません。けれども、からだまるごとの照見という言葉は、からだを離れて般若があるのではない、ということを、私たちに思い起こさせてくれます。
「五枚の般若」#
続いて禅師は言われます。
「五蘊は色・受・想・行・識なり、五枚の般若なり」(原文【1】)。
五蘊とは、色・受・想・行・識の五つです。語注で説明したように、色は形あるもの、受は感受、想は思い浮かべること、行は意志などのはたらき、識は認識・識別のことで、私たちの身と心をはじめ、あらゆるものはこの五つの集まりから成りたっている、と説かれます。
経の句では、五蘊は、照らし見られて「みな空である」とされるものでした。ところが禅師は、その五蘊を、そのまま「五枚の般若」だと言われます。照らし見られる側にあった五蘊が、ここでは、般若そのものとして数えあげられているのです。
宗務庁版英訳の注では、この句を、五蘊の一つ一つが般若のあらわれである、という意味に取っています。そのうえで注は、『心経』の中の、空の中には色も受・想・行・識もない、と説く箇所を参照させています。経が「無い」と説く五蘊を、禅師は「五枚の般若」と言う。この二つをどのように結びつけて受けとめるかは、読む人に委ねられているところでしょう。
この句についても、五蘊の一つ一つがそれぞれ般若であると取るか、五蘊は(全体で)五枚から成る一つの般若であると取るか、読みが分かれます(→読みの分かれるところ)。
般若を「枚」で数える#
ここで、どうしても立ちどまっておきたいのが、「枚」という言葉です(→読みの分かれるところ)。
「枚」は、紙や板のような、平たいものを一つ二つと数えるときの言葉です。般若は智慧であり、ふつうは「一枚、二枚」と数えるようなものではありません。それを禅師は、「五枚の般若」と数えられます。そして、この段落の後半では、「十二枚」「十八枚」「四枚」「六枚」「一枚」「三枚」と、この数え方がくり返されていきます。
この「枚」をどう受けとめるかには、いくつかの方向があります。ふつうの「五つの般若」と同じことだと取ることもできます。宗務庁版英訳は「枚」を pieces(片)と訳し、「五片の般若」(prajñā in five pieces)としています。この訳語からは、一つの般若がいくつかに分かれている含みを読むこともできますが、宗務庁版英訳の注そのものは、さきに見たように、五蘊の一つ一つが般若のあらわれである、と説明しています。また、紙や板のような、平たく具体的なものを数える語をあえて選んだところに、禅師の言葉づかいの意味を見ることもできるでしょう。現代語訳では、どれか一つに決めずに、原文の「枚」をそのまま残しました。
どの受けとめ方をとるにしても、一つ確かに言えることがあります。それは、禅師がこの段落で、般若を、どこか遠くにある抽象的な理念としてではなく、一つ、二つと数えられるものとして語っておられる、ということです。色も、受も、想も、行も、識も、それぞれに数えあげられる。私たちの身心をかたちづくっている一つ一つが、そのまま般若として数えられているのです。
「照見、これ般若なり」#
【1-1】の最後の一句は、短いものです。
「照見、これ般若なり」(原文【1】)。
照らし見ること、それがそのまま般若である、と。
経の句では、照見は、般若波羅蜜多を行ずる時に起こる出来事でした。般若を行じていると、その結果として、五蘊皆空が照らし見られる。そう読めば、般若が原因で、照見がその結果である、ということになります。けれども禅師は、照見そのものが般若だ、と言われます。般若があって、それによって照見するのではない。照見することが、そのまま般若なのです。
ここまでの【1-1】をふり返ると、禅師は、経の句の中で分かれていたものを、次々と一つに結びつけておられるように読めます。般若を行ずる「時」と、照見という「出来事」。照らし見る菩薩と、照らし見られる五蘊。そして、般若と照見。どれも、経のふつうの読みでは、一方が他方の舞台であったり、主と客であったり、原因と結果であったりしました。禅師はそれを、「……は……なり」「これ……なり」と、言いきる形で一つにしていかれる、と読むことができます。
この言い方は、弁道話で読んだ「修証これ一等なり」(『弁道話』第五回)を思い起こさせます。弁道話では、修行(修)をさとり(証)を得るための手段と見て、修が先、証が後と考える見方が退けられていました。ここでも、般若を行ずることが、照見という結果を得るための手段とはされていません。行ずる時が、そのまま照見であり、照見がそのまま般若である。坐禅をして、その先に何かを照らし見ようと待つのではなく、坐るそのことが、からだまるごとの照見である。そう受けとめることもできるのではないでしょうか。
【1-2】「色即是空なり、空即是色なり」――経の句から十二入へ#
「この宗旨の開演現成するにいはく」#
【1-2】は、次の言葉で始まります。
「この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり」(原文【1】)。
「宗旨」は、根本の趣旨、かなめの教えです。「開演」は説き開くこと、「現成」は現れ出て、そのまま成りたっていることです。この宗旨が説き開かれ、現れ出て言うには、「色即是空」であり、「空即是色」である、と。
この句は、読みの分かれやすいところです(→読みの分かれるところ)。「この宗旨」が何を指すのか。前の【1-1】で述べられた、照見がそのまま般若であり、五蘊が五枚の般若である、という趣旨を指すと取ることもできます。宗務庁版英訳の注は、「この」の指すものははっきりしないとし、単に、(経が)般若の教えを説くところで、こう言われている、という意味かもしれない、としています。また、「いはく」の主語を経と見るか、宗旨そのものと見るか、禅師ご自身と見るかにも幅があります。
ここでは、「開演」という言葉に心をとめておきたいと思います。さきに見たように、弁道話では、坐禅する人のもとで、あらゆるものが「究竟無為の深般若を開演す」(『弁道話』第二回)と言われていました。弁道話では、深い般若を「開演」するのは、坐禅の場にともに現れる一切のものでした。ここでは、般若の宗旨が「開演現成」する、と言われています。どちらの場合も、般若は、誰かが外から取ってきて説明するものというより、おのずから説き開かれ、現れ出てくるものとして語られている、と受けとめることもできるでしょう。
「色即是空なり、空即是色なり」#
「色即是空、空即是色」は、『般若心経』の中でも、とりわけよく知られた句です。宗務庁版英訳の注も、この句を『心経』の有名な一節からの引用としています。色、すなわち形あるものは、そのまま空であり、空はそのまま色である、と。
禅師はこの句を、経の言葉そのままに引き、そこに「なり」を添えるだけで、何の説明も加えておられません。本書でも、ここで「空」の教理について長く説明することはしないでおきます。現代語訳の語注で、空とは、ものごとには固定した実体がないということ、と短く記したとおりです。
大切なのは、禅師がこの有名な句を、そのあとにどう続けておられるか、ということです。
「色是色なり、空即空なり」#
「色是色なり、空即空なり」(原文【1】)。
これは、経の句ではありません。禅師ご自身の言い方です。
経の「色即是空、空即是色」は、色と空とを互いに結びつけて言う句です。色は空であり、空は色である。一方を言えば、すぐさま他方に結びつく。それに対して禅師は、「色は色」「空は空」と、それぞれをそれ自身として言われます。
これを、どう受けとめたらよいでしょうか(→読みの分かれるところ)。経の句をさらに展開したもの、すなわち、色と空とを結びつけたうえで、あらためて色を色として、空を空として言いなおしたもの、と受けとめることもできます。経の句をひるがえし、超えていく言葉と受けとめることもできます。あるいは、経の句と同じことを別の言い方で言ったものと見ることもできるでしょう。また、前の句は「色是色」と「是」を、後の句は「空即空」と「即」を用いていて、経の「即是」を二つに分けて使っています。この使い分けに意味の違いを見るかどうかにも、読みの幅があります。現代語訳では、言い換えの方向を訳文に加えず、「色はこれ色であり、空はそのまま空である」とだけ訳しました。
どの受けとめ方をとるにしても、この句には、【1-1】と通じる禅師の言い方の特徴が現れているように思われます。それは、ものを何か別のものに置きかえて説明するのではなく、そのものを、そのものとして言いきる、という言い方です。【1-1】では、五蘊がそのまま「五枚の般若」であり、照見がそのまま「般若」でした。ここでは、色が色であり、空が空です。
坐禅をしていると、さまざまな思いが浮かんできます。音が聞こえ、足の痛みを感じ、あれこれのことが心をよぎる。私たちはそのたびに、それに意味を与えたり、よしあしを判断したりしがちです。「色是色なり」という言葉を、そうした私たちのくせと重ね合わせて味わうこともできるかもしれません。聞こえる音は聞こえる音であり、感じる痛みは感じる痛みである。それを何か別のものに置きかえず、それとして受けとる。ただし、これは本文がそう説いているということではなく、この句を日々の坐禅のなかで味わうときの、一つの受けとめ方として申し添えておきます。
「百草なり、萬象なり」#
「百草なり、萬象なり」(原文【1】)。
百草も万象も、宗務庁版英訳の注によれば、ともに世のあらゆるものを言う、よく用いられる言葉です。百草は数多くの草、万象はあらゆる形あるものです。
この句には、主語が示されていません(→読みの分かれるところ)。宗務庁版英訳は、主語を「色」と「空」に取って「それらは百草であり、万象である」と訳していますが、注では、直前の「空」を主語と取ることもできる、としています。また、「色即是空」から「空即空」までの全体、あるいは般若を受けていると見ることもできるでしょう。
主語をどう取るにしても、この句によって、話が、目の前の草の一本一本、世のありとあらゆるものへと一気に広がっていることは確かです。色と空という言葉で語られてきたことが、ここで、百草・万象という、私たちが日々目にしている具体的なものの名で言いなおされています。
「般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり」#
そして【1-2】は、こう結ばれます。
「般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり」(原文【1】)。
十二入とは、宗務庁版英訳の注によれば、十二処とも言われるもので、六つの感覚・認識の器官(六根)と、その対象(六境)とをあわせた十二です。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と、色・声・香・味・触・法の六境。ここでは列挙はありませんが、次の【1-3】の「十八枚の般若」の列挙の、はじめの十二がこれに当たります。
私たちは、目で色や形を見、耳で音を聞き、鼻でにおいをかぎ、舌で味わい、からだで触れ、心で思います。見る私と、見られるもの。聞く私と、聞かれる音。この十二が、そのまま十二枚の般若波羅蜜である、と禅師は言われます。
ここで、「般若波羅蜜十二枚」という語順にも、少し心をとめておきましょう。【1-1】の「五枚の般若」や、【1-3】の「十八枚の般若」などは、「数+枚の+般若」という形でした。ここは「般若波羅蜜」が先、「十二枚」が後に置かれています。また、「般若」と「般若波羅蜜」という二つの言い方もまじっています。こうした語順や言い方の違いに意味の違いを認めるかどうかにも、読みの幅があります(→読みの分かれるところ)。
【1-3】「また……枚の般若あり」――行・住・坐・臥まで#
「また」でつながれる七つの列挙#
【1-3】に入ると、禅師の言葉は、ほとんど「また……枚の般若あり、……なり」という形だけで進んでいきます。原文に沿って並べてみると、次のようになります。
| 原文の言い方 | 挙げられるもの | 語注での名 |
|---|---|---|
| 十八枚の般若 | 眼・耳・鼻・舌・身・意、色・聲・香・味・触・法、眼・耳・鼻・舌・身・意識等 | 十八界 |
| 四枚の般若 | 苦・集・滅・道 | 四諦 |
| 六枚の般若 | 布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若 | 六波羅蜜(六度) |
| 一枚の般若波羅蜜 | 阿耨多羅三藐三菩提 | 仏のさとり |
| 般若波羅蜜三枚 | 過去・現在・末来 | 三世 |
| 般若六枚 | 地・水・火・風・空・識 | 六大 |
| 四枚の般若 | 行・住・坐・臥 | 四威儀 |
右端の名は、現代語訳の語注で、宗務庁版英訳の注などによって示したものです。原文には、「十八界」「四諦」といった名は出てこず、ただ「何枚の般若」と、その中身の列挙があるだけです。
一つ一つの項目について、教理の説明を長く加えることはしません。それよりも、この列挙がどのような順で、どこへ向かって進んでいくのかに、目を向けてみたいと思います。
十八枚の般若――見るもの、見られるもの、見ること#
「また十八枚の般若あり、眼・耳・鼻・舌・身・意・色・聲・香・味・触・法、および眼・耳・鼻・舌・身・意識等なり」(原文【1】)。
はじめの十二は、【1-2】で十二入として数えられた六根と六境です。それに、六根が六境に向かって起こる六つの認識、眼識から意識までの六識が加わって、十八になります。宗務庁版英訳の注は、この句と前の十二入の句が、『心経』の中で六根・六境・十八界を挙げる箇所をふまえている、としています。
「眼・耳・鼻・舌・身・意識等」の「識」をどこまでかけて読むか、「等」をどう受けとめるかには、読みの幅があります。訳文では、「識」を六つすべてにかけて六識と取り、「等」は「など」と訳しました。
ここで言われているのは、私たちが何かを見たり聞いたりするということの、すべてです。見る器官があり、見られるものがあり、見るというはたらきがある。その十八のすべてが、一枚一枚、般若として数えられています。【1-1】で五蘊が「五枚の般若」とされたのと同じように、私たちの見聞覚知のいとなみの一つ一つが、般若の外にあるのではない、と読むことができます。
四枚の般若、六枚の般若#
「また四枚の般若あり、苦・集・滅・道なり。また六枚の般若あり、布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若なり」(原文【1】)。
苦・集・滅・道の四つは、宗務庁版英訳の注によれば、仏教の四つの聖なる真理(四諦)です。布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若の六つは、菩薩の修める六つの行、六波羅蜜(六度)です。
六枚の般若の六つめに、「般若」そのものが数えられていることに、注意しておきたいと思います。般若の一枚として般若がある。般若は、ほかのものと並んで数えられる一つでありながら、同時に、ほかの五つ(布施・浄戒・安忍・精進・静慮)もまた、それぞれ一枚の般若である。禅師は、そのことを特に説明してはおられませんが、この列挙の形そのものが、般若が何か一つの特別な項目にとどまるものではない、ということを示しているようにも読めます。
弁道話の問5では、「三学のなかに定学あり、六度のなかに禅度あり」(『弁道話』第四回)と、坐禅は三学・六度の一つにすぎないのではないか、という問いが出されていました。禅師はそれに対して、坐禅を宗とすることから起こった「禅宗」の名の由来を説いたうえで、「六度および三学の禅定にならつていふべきにあらず」(『弁道話』第四回)と答えておられました。ここで六度の一つ一つが「般若」として数えられていることと、弁道話のこの答えとをどう結びつけるかは、この段だけからは決められません。ただ、弁道話で坐禅が六度の中の一項目として扱われることを退けておられた禅師が、ここでは六度の一つ一つを、項目として並べるのではなく、それぞれ一枚の般若として数えておられる、ということは、心にとめておいてよいでしょう。
一枚の般若波羅蜜――而今現成せり#
列挙のちょうどなかほどで、数が「一枚」になります。
「また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり」(原文【1】)。
阿耨多羅三藐三菩提とは、この上なく正しい完全なさとり、仏のさとりのことです。ほかの項が、二つ、三つ、あるいは十八と、いくつものものを列挙するのに対して、ここだけは一枚であり、それが仏のさとりである、と言われます。
この一文は、この段落の中でもとりわけ読みの分かれるところです(→読みの分かれるところ)。
一つは、「而今現成せり」を、道元禅師が多く用いられる「而今」(まさに今、いまここ)と「現成」(現れ出て、そのまま成りたっていること)の語の用い方に即して、一枚の般若波羅蜜が、いま・ここに現成している、と読む読み方です。現代語訳はこれに従い、「一枚の般若波羅蜜が、而今(いま)現成している」と訳しました。
もう一つは、宗務庁版英訳の注がおそらく妥当とする読み方で、一枚の般若波羅蜜が、ここに、すなわち『心経』に説き示されている、という意味に取るものです。注は、三世の諸仏が般若波羅蜜多によって阿耨多羅三藐三菩提を得る、という『心経』の句を、その根拠として挙げています。
また、「而今現成せり」を挿入句のように見て、「一枚の般若波羅蜜は阿耨多羅三藐三菩提である」をこの文の骨組みと取ることもできます。さらに、「一枚」が他の列挙と違って一つであることに、般若波羅蜜の全体がそのまま仏のさとりである、という意味を読むか、それとも列挙の一項と見るかにも、幅があります。
本書ではこのいずれかに決めることはしませんが、語注に記したように「而今」「現成」が道元禅師の多く用いられる言葉であることを思うとき、この一文を、いま・ここの私たちの身の上のこととして受けとめてみることには、意味があるように思います。仏のさとりは、遠い未来に、長い修行の果てにようやく手に入るものとして語られているのではなく、「而今現成せり」、すでにいま現れ出ているものとして語られている。そう読むとき、この一文は、弁道話で「初心の辦道すなはち本証の全体なり」(『弁道話』第五回)と示されていたことと、深く響き合ってくるでしょう。ただし、これはあくまで一つの受けとめ方であって、英訳の注が示すように、経の句をふまえて読む読み方も、十分に成りたつものです。
般若波羅蜜三枚――過去・現在・末来#
「また般若波羅蜜三枚あり、過去・現在・末来なり」(原文【1】)。
過去・現在・未来、あわせて三世です。原文は「末来」と書かれていますが、過去・現在と並ぶ三世の一つですから、現代語訳では「未来」の意に取りました。
時もまた、三枚の般若として数えられています。過ぎ去った時も、いまの時も、これから来る時も、それぞれ一枚の般若である。直前の一文で「而今」、いまが言われたすぐあとに、過去・現在・未来の三世が数えられていることも、目をとめておきたいところです。
般若六枚――地・水・火・風・空・識#
「また般若六枚あり、地・水・火・風・空・識なり」(原文【1】)。
地・水・火・風・空・識は、宗務庁版英訳の注によれば、仏教の宇宙観で世界を成りたたせる六つの要素、六大です。ここでの「空」は空間の意で、【1-1】【1-2】の「空」とは別の意味であることは、語注で記したとおりです。
十八界では私たちの見聞覚知が、四諦・六度では仏道の教えと行が、三世では時が数えられました。ここでは、世界そのものを形づくる要素が、六枚の般若として数えられています。般若の列挙は、私たちの身心から、教えと行へ、さとりへ、時へ、そして世界へと、どこまでも広がっていくかのようです。
なお、宗務庁版英訳の注は、十八界や一枚の般若波羅蜜については『心経』の該当句を示していますが、この六大と、次の四威儀については『心経』の句を示さず、語の説明にとどめています。
四枚の般若、よのつねにおこなはる――行・住・坐・臥#
そして、この段落の、そしてこの列挙の最後に置かれるのが、次の一文です。
「また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行・住・坐・臥なり」(原文【1】)。
行・住・坐・臥は、歩くこと、とどまる(立つ)こと、坐ること、臥す(横になる)ことです。宗務庁版英訳の注では、これを身の四つのふるまい、四威儀としています。人の起居動作のすべてを言う言葉としても用いられます。
世界を形づくる六大にまで広がった列挙は、最後に、私たちの毎日の立ち居ふるまいへと戻ってきます。歩くこと、立つこと、坐ること、横になること。特別な修行の場面でも、特別な教えの項目でもない、誰もが毎日くり返していることです。それが「四枚の般若」として数えられ、しかも、「よのつねにおこなはる」、ふだんいつも行われている、と言われるのです。
この一文にも、読みの幅があります(→読みの分かれるところ)。「よのつねに」を、ふだん、いつも、日常に、と取るか(訳文。宗務庁版英訳も日常の生活の中で行われる、と訳しています)、世間でふつうに、世の人々の間で、と取るか。また、「四枚の般若が日常に行われている。それは行住坐臥である」と、「おこなはる」で文が切れると見るか(訳文)、「日常に行われる四枚の般若とは行住坐臥である」と、「よのつねにおこなはる」を「四枚の般若」の説明と見るか、あるいは「四枚の般若とは、日常に行われる行・住・坐・臥である」と、「よのつねにおこなはる」を後の「行・住・坐・臥」の説明と見るか(宗務庁版英訳はこの形に訳しています)。「おこなはる」を、行われている、おのずから行われる、と受身・自発に取るか、尊敬の意に取るかにも幅がありえます。訳文では、受身・自発の意に取りました。
どの読み方をとっても、ここで般若が、毎日の行住坐臥として、ふだん行われているものとして語られていることに変わりはありません。般若の列挙の最後が、阿耨多羅三藐三菩提でも、六大でもなく、行住坐臥で結ばれていることには、やはり心をとめておきたいと思います。
行住坐臥と、坐禅#
弁道話の問6では、ちょうどこの行・住・坐・臥が取りあげられていました。「仏家なにによりてか四儀のなかに、ただし坐にのみおほせて禅定をすすめて証入をいふや」(『弁道話』第四回)。仏家は、どういうわけで、四儀の中で、ただ坐だけに(その役を)負わせて、禅定を勧め、証に入ることを説くのか、と。禅師はそれに、「ただ仏家のもちゐるところをゆゑとしるべし」と答え、さらに祖師が坐禅を「安楽の法門」とほめたことを挙げて、「はかりしりぬ、四儀のなかに安楽なるゆゑか」と示しておられました(『弁道話』第四回)。
弁道話では、四儀の中から坐が取り出され、坐禅が仏法の正門として示されていました。「摩訶般若波羅蜜」のこの一文では、行・住・坐・臥の四つが、そろって「四枚の般若」と数えられています。
この二つをどう結びつけて受けとめるかは、本文が直接に語っているところではありません。ただ、次のように受けとめることはできるように思います。坐禅は、四儀のうちの坐において、仏祖が用いてきたとおりに坐ることです。そして、その坐は、行・住・臥とともに、一枚の般若として、日々のなかに「よのつねにおこなはる」ものでもある。坐禅は、日常から切り離された特別な時間ではなく、行住坐臥の一つとして日々の暮らしの中にあり、その日々の暮らしの行住坐臥もまた、坐禅と別のところにある般若ではない。坐禅を正門としながら、その正門から入っていく先は、歩くことも、立つことも、横になることも含めた、毎日の暮らし全体なのだ、と。
歩くときの歩き方、立つときの立ち方、坐るときの坐り方、休むときの休み方。坐禅のときだけでなく、日々のふるまいの一つ一つをととのえることを、坐禅のとき以外の時間を坐禅の「ための」準備として整えること、とだけ受けとめる必要はないでしょう。この段の言葉に照らして言えば、行・住・坐・臥のそれぞれが、そのまま一枚の般若として行われている、と受けとめることができます。
これは、出家した人だけのことではありません。「よのつねに」、ふだんいつもの暮らしの中で、誰もが歩き、立ち、坐り、横になっています。朝、目を覚まして起きあがる。台所へ歩いていく。立って湯をわかす。坐って食事をいただく。仕事に出かけ、帰ってきて、夜、床に横になる。私たちはふつう、こうした動作を、何かほかの目的のための、いわば「つなぎ」の時間として過ごしています。早く目的地に着くために歩き、用事をすませるために立ち、疲れたから坐り、明日のために眠る。けれども禅師は、その行住坐臥を、そのまま四枚の般若と数えられました。
そう受けとめるとき、歩くときにはただ歩き、立つときにはただ立ち、坐るときにはただ坐り、横になるときにはただ横になる、という日々の過ごし方が、それ自体として大切なものに見えてきます。一つの動作を、次の動作のための手段としてではなく、それとして丁寧に行う。【1-2】の「色是色なり」の言い方を借りれば、歩くことは歩くことであり、坐ることは坐ることである。そのように一つ一つのふるまいに心をこめることが、「よのつねにおこなはる」四枚の般若を、私たちが自分の身の上で受けとめることになるのではないでしょうか。
ただし、ここで一つ気をつけておきたいことがあります。それは、「日常のふるまいがそのまま般若なのだから、坐禅をしなくてもよい」「ありのままでよいのだから、何もととのえなくてよい」という受けとめ方です。この段の本文は、坐禅が要るか要らないかについては何も語っていません。そのうえで、弁道話をふり返ると、序には、「端坐参禅を正門とせり」と言われたすぐあとに、「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」とありました(『弁道話』第一回)。仏法は一人ひとりにゆたかにそなわっているけれども、修行しなければ現れない、と。行住坐臥が四枚の般若であるという言葉は、日々のふるまいをどうでもよいものとすることではなく、かえって、日々のふるまいの一つ一つを、般若として丁寧に行うようにとうながす言葉として受けとめるのが、弁道話以来の禅師の教えの筋に沿った受けとめ方であるように思われます。
むすびに――般若を、一枚一枚#
今回読んだ一段落を、あらためてふり返ってみましょう。
禅師は、『般若心経』の冒頭の句を、「行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」と組みかえるところから、この巻を始められました(【1-1】)。般若を行ずる時が、そのまま、からだまるごとの照見である。五蘊は五枚の般若であり、照見がそのまま般若である。
続いて、「色即是空なり、空即是色なり」という経の句を引いたうえで、「色是色なり、空即空なり」と、色を色として、空を空として言いきり、それを百草・万象へと広げ、十二入を十二枚の般若波羅蜜と数えられました(【1-2】)。
そして、「また……枚の般若あり」とくり返しながら、十八界、四諦、六度、仏のさとり、三世、六大と、般若を次々に数えあげ、最後に、「よのつねにおこなはる」行・住・坐・臥を、四枚の般若として結ばれました(【1-3】)。
この段落の言葉は、どれも短く、説明がほとんど加えられていません。けれども、その言い方には、はっきりとした特徴があります。一つは、般若を、「一枚、二枚」と数えられるものとして語ること。もう一つは、私たちの身心も、見聞きするものも、仏道の教えも、時も、世界も、そして毎日の立ち居ふるまいも、それぞれをそのまま「般若」と言いきることです。般若は、私たちの身心や日々の暮らしから離れたどこか遠くにあるのではなく、一枚一枚、ここに数えられている。そしてその列挙は、「よのつねにおこなはる」行住坐臥で結ばれていました。
坐禅をするとき、私たちは、からだまるごとで坐ります。坐禅を終えて立ちあがり、歩き、また日々の務めに戻っていきます。その一つ一つを、何かほかのことのための手段としてではなく、そのつど一枚の般若として行う。この冒頭の一段落は、そうした日々の行持のあり方を、静かに指し示しているように思われます。
この巻は、次の段落から、『大般若経』の引用へと進んでいきます。釈尊の会座にいた一人の比丘が、甚深の般若波羅蜜多を敬礼しようと心ひそかに思う、という一節です。禅師がそれをどう受けとめておられるかを、次の回で読んでいきます。
読みの分かれるところ#
この回の範囲は短い言い切りの連続で、読み方が一つに定まらない言い回しがいくつもあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。
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「觀自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」【1-1】
「行深般若波羅蜜多時」を主題とし、「渾身の照見五蘊皆空」をその述語とする読み方のほか、「渾身」を実質上の主語に取り、(菩薩の)全身が照見五蘊皆空である、と読む読み方もあります。「渾身」も、観自在菩薩の全身と取るか、菩薩に限らない、まるごと全体と取るかで幅があります。宗務庁版英訳は、菩薩が深い般若波羅蜜多を行じた時、それは彼の全身が五蘊皆空と照見することであった、という形に訳しています。 -
「五蘊は色・受・想・行・識なり、五枚の般若なり」【1-1】
五蘊の一つ一つがそれぞれ般若である、と取ることも、五蘊は全体で五枚から成る一つの般若である、と取ることもできます。宗務庁版英訳の注は、五蘊の一つ一つが般若のあらわれである、という前者の方向で説明しています。 -
般若を数える「枚」【1-1】〜【1-3】
ふつうの「五つの般若」と同じ数え方と取ることも、一つの般若がいくつかに分かれている含みを読むことも、紙や板のような平たく具体的なものを数える語をあえて選んだところに意味を見ることもできます。「五枚の般若」と「般若波羅蜜十二枚」のような語順の違いや、「般若」と「般若波羅蜜」の言い分けに、意味の違いを認めるかどうかにも幅があります。宗務庁版英訳は「枚」を pieces(片)と訳していますが、注では、五蘊の一つ一つが般若のあらわれである、と説明しています。 -
「この宗旨の開演現成するにいはく」【1-2】
「この宗旨」を、前に述べられた照見・五枚の般若の趣旨と取るか、『心経』の教え一般と取るかで幅があります。「いはく」の主語も、経と見るか、宗旨そのものと見るか、禅師ご自身と見るかで分かれます。宗務庁版英訳の注は、「この」の指すものははっきりしないとし、(経が)般若の教えを説くところでこう言われている、の意かもしれないとしています。 -
「色是色なり、空即空なり」【1-2】
経の「色即是空・空即是色」を展開して、あらためて色を色、空を空と言いなおしたものと受けとめることも、経の句をひるがえし超えていく言葉と受けとめることも、同じことの別の言い方と見ることもできます。前の句の「是」と後の句の「即」の使い分けに意味の違いを見るか、字を変えただけで同じ意味と見るかにも幅があります。宗務庁版英訳は、後の句にだけ「それ自身」にあたる語を添えて、字の違いを訳し分けています。 -
「百草なり、萬象なり」【1-2】
主語が示されていないため、「色」と「空」を受けると取るか、直前の「空」を受けると取るか、「色即是空」から「空即空」までの全体、あるいは般若を受けると取るかで幅があります。宗務庁版英訳は「色」と「空」を主語に取って訳し、注で直前の「空」とも取れるとしています。 -
「また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり」【1-3】
「而今現成せり」を、一枚の般若波羅蜜がいま・ここに現成している、と読むことも、ここに(『心経』に)説き示されている、と読むこともできます。「而今現成せり」を挿入句と見て、「一枚の般若波羅蜜は阿耨多羅三藐三菩提である」を骨組みと取る読み方もあり、「一枚」に般若波羅蜜の全体がそのまま仏のさとりであるという意味を読むか、列挙の一項と見るかにも幅があります。宗務庁版英訳は、本文では「いま現成した」に近い形に訳す一方、注では『心経』に説き示されている、の意に取るのがおそらく妥当としていて、本文の訳と注とで向きが異なっています。 -
「また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行・住・坐・臥なり」【1-3】
「よのつねに」を、ふだん・日常に、と取るか、世間でふつうに、と取るかで幅があります。文の組み立ても、「四枚の般若が日常に行われている。それは行住坐臥である」と切る読み方、「日常に行われる四枚の般若とは行住坐臥である」と読む読み方、「四枚の般若とは、日常に行われる行・住・坐・臥である」と読む読み方が考えられます。宗務庁版英訳は、日常の生活の中で行われる行・住・坐・臥、という最後の形に訳しています。
参考#
- 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第二「摩訶般若波羅蜜」
- 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. I(Sōtō Zen Text Project、2023)
- 本巻の撰述の年代・場所と諸本での位置、語句の典拠(『般若心経』の句、十二入・十八界・四諦・六度・六大・四威儀など)と、「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注・解題によります。