弁道話(六)問答四 心常相滅の見#
『弁道話』の問答のうち、十番目の問い(問10)とその答えを読む回です。
原文#
【1】(問10)とふていはく、あるがいはく、生死をなげくことなかれ、生死を出離するにいとすみやかなるみちあり。いはゆる、心性の常住なることはりをしるなり。そのむねたらく、この身体は、すでに生あればかならず滅にうつされゆくことありとも、この心性はあへて滅することなし。よく生滅にうつされぬ心性わが身にあることをしりぬれば、これを本来の性とするがゆゑに、身はこれかりのすがたなり、死此生彼さだまりなし。心はこれ常住なり、去来現在かはるべからず。かくのごとくしるを、生死をはなれたりとはいふなり。このむねをしるものは、従来の生死ながくたえて、この身をはるとき性海にいる。性海に朝宗するとき、諸仏如来のごとく、妙徳まさにそなはる。いまはたとひしるといへども、前世の妄業になされたる身体なるがゆゑに、諸聖とひとしからず。いまだこのむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべし。しかあればすなはち、ただいそぎて心性の常住なるむねを了知すべし。いたづらに閑坐して一生をすぐさん、なにのまつところかあらん。かくのごとくいふむね、これはまことに諸仏諸祖の道にかなへりや、いかん。
【2】(答10の一)しめしていはく、いまいふところの見、またく仏法にあらず、先尼外道が見なり。
【3】(答10の二)いはく、かの外道の見は、わが身うちにひとつの霊知あり、かの知、すなはち縁にあふところに、よく好悪をわきまへ、是非をわきまふ。痛痒をしり、苦楽をしる、みなかの霊知のちからなり。しかあるに、かの霊性は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにうまるるゆゑに、ここに滅すとみゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。かの外道が見、かくのごとし。
【4】(答10の三)しかあるを、この見をならふて仏法とせん、瓦礫をにぎつて金宝とおもはんよりもなほおろかなり。癡迷のはづべき、たとふるにものなし。大唐国の慧忠国師、ふかくいましめたり。いま心常相滅の邪見を計して、諸仏の妙法にひとしめ、生死の本因をおこして、生死をはなれたりとおもはん、おろかなるにあらずや、もともあはれむべし。ただこれ外道の邪見なりとしれ、みみにふるべからず。
【5】(答10の四)ことやむことをえず、いまなほあはれみをたれて、なんぢが邪見をすくはば、しるべし、仏法には、もとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる、西天東地おなじくしれるところ、あへてたがふべからず。いはんや常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心とをわくことなし。寂滅を談ずる門には、諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし。しかあるを、なんぞ身滅心常といはん、正理にそむかざらんや。しかのみならず、生死はすなはち涅槃なりと覚了すべし、いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。いはんや心は身をはなれて常住なりと領解するをもて、生死をはなれたる仏智に妄計すといふとも、この領解智覚の心は、すなはちなほ生滅して、またく常住ならず。これ、はかなきにあらずや。
【6】(答10の五)嘗観すべし、身心一如のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。しかあるに、なんぞこの身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて生滅せざらん。もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、仏説おのづから虚妄になりぬべし。又生死はのぞくべき法ぞとおもへるは、仏法をいとふつみとなる。つつしまざらんや。
【7】(答10の六)しるべし、仏法に心性大総相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし。一切諸法、万象森羅、ともにただこれ一心にして、こめずかねざることなし。このもろもろの法門、みな平等一心なり。あへて異違なしと談ずる、これすなはち仏家の心性をしれる様子なり。
【8】(答10の七)しかあるを、この一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらんや。すでに仏子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひびきをみみにふるることなかれ。
現代語訳#
段落番号【1】〜【8】は原文の段落番号と対応します。(問10)などの小見出しは読みやすさのために付けたもので、原文にはありません。( )内は、原文にない語を補ったものです。仏教語・固有名詞は訳さずに残し、必要に応じて段落の後に「語注」として説明しました。
【1】の「 」内は、問う人が「ある人」の説として持ち出したもの(心性は常住であり、身は仮のすがたにすぎない、という説)で、道元禅師の説ではありません。【2】〜【8】が禅師の答えで、この説を先尼外道の見として退け、仏法では身心一如・性相不二と説くことを示します。訳文では、問う人の説と禅師の批判が混ざらないよう、主語などを補いました。
【1】(問10)問うて言う。ある人が言うには、 「生死を嘆いてはならない。生死を出離するのに、たいへん速やかな道がある。いわゆる、心性が常住であるという道理を知ることである。その趣旨はこうである。この身体は、生がある以上、必ず滅へと移されてゆくことがあっても、この心性は決して滅することがない。生滅に移されることのない心性がわが身にあることをよく知ったならば、これ(心性)を本来の性とするのであるから、身は仮のすがたであって、ここで死にかしこに生まれて定まりがない。心は常住であって、過去・未来・現在にわたって変わることがない。このように知ることを、生死を離れたというのである。この趣旨を知る者は、これまでの生死が永く絶えて、この身が終わるとき性海に入る。性海に朝宗するとき、諸仏如来のように、妙徳がまさに具わる。今は(この趣旨を)知っていても、前世の妄業によってつくられた身体であるから、諸聖と等しくはない。まだこの趣旨を知らない者は、久しく生死にめぐるであろう。そうであるから、ただ急いで、心性が常住であるという趣旨を了知すべきである。むなしく閑坐して一生を過ごしたところで、何を待つところがあろうか(何も得るところはない)」 と。このように言う趣旨は、まことに諸仏諸祖の道にかなっているのか、どうか。
語注
- あるがいはく:ある人が言うには。問う人が、自分の考えとしてではなく、世にある説として持ち出している。宗務庁版英訳の注は、「ある人」の言葉として引かれているのは初めの二文だけで、「そのむねたらく」以下は問う人による説明かもしれない、とする(宗務庁版英訳による)。訳文では「 」を問いの末までとした(→読みの分かれるところ)。
- 生死:生まれては死ぬことをくりかえす、迷いの生存。
- 出離:(迷いの世界から)抜け出て離れること。
- 心性:心の本性。ここでは問う人の説での用法で、身体とは別にあって、身体が滅びても滅びない心の本体を言う。【7】で禅師が言う「心性」(身も心も、生死も涅槃もすべてを含むもの)とは、同じ語でも指す内容が異なる(→読みの分かれるところ)。
- 常住:常にあって変わらないこと、不滅であること。
- そのむねたらく:その趣旨とするところは(次のとおりである)。
- 本来の性:もとからの本性、ほんとうの自分。
- 死此生彼:ここで死に、かしこに生まれる。一つの生で死に、別の生に生まれかわることを言う定まった言い方(宗務庁版英訳による)。
- 去来現在:過去・未来・現在。
- 性海:仏性・法性を海にたとえた語で、究極の真如の世界を言う(宗務庁版英訳による)。ここでは、身が終わったあと心性が帰ってゆく先として言われている。
- 朝宗:もと、諸侯が天子のもとに参ずることを言い、転じて、川が海に流れ入ることを言う。ここでは、心性が性海に流れ入ること。
- 諸仏如来:あらゆる仏。
- 妙徳:すぐれた徳。
- 妄業:迷いによってつくった業(行いとその力)。
- 諸聖とひとしからず:もろもろの聖者と等しくはない。宗務庁版英訳の注は、進んだ修行者に具わる妙徳をまだ持たない、の意とする。
- 了知:はっきりと知ること。
- 閑坐:なすことなく静かに坐ること。問う人の説の側から、坐禅の修行をむだなものとして言う口ぶりと見られる(→読みの分かれるところ)。
- 諸仏諸祖:すべての仏と祖師たち。
- 問答の番号:この問いは弁道話の問答の第10問にあたる(宗務庁版英訳による)。
【2】(答10の一)示して言う。いま(あなたが)言う見(解)は、まったく仏法ではない。先尼外道の見である。
語注
- 見:見解、ものの見方。
- またく:まったく。
- 先尼外道:宗務庁版英訳の注によれば、「外道」は仏教以外の教え(ここではインドのバラモンの教え)を言い、「先尼」は『大般涅槃経』に出てくるバラモンの名で、身から身へと生まれかわってゆく自己(我)があると主張した者。道元禅師は『正法眼蔵』のいくつかの巻でこの見に触れる(宗務庁版英訳による)。本山版では「即心是仏」「仏性」などの巻に先尼外道の名が見える。
【3】(答10の二)(その見を説明して)言うと、かの外道の見(では、こうである)。わが身の内に一つの霊知がある。その知は、縁に出会うところで、好ましいものと厭わしいものとをよく見分け、是と非とを見分ける。痛みやかゆみを知り、苦しみや楽しみを知るのは、みなその霊知の力である。そして、その霊性は、この身が滅するとき、(身から)抜け出して、かしこに生まれる。それゆえ、ここで滅したと見えても、かしこでの生があるのだから、永く滅することなく常住である、と言うのである。かの外道の見は、このようなものである。
語注
- 霊知:霊妙な知のはたらき。外道の説で、身の内にあって、ものを知り分ける主体とされるもの。
- 縁:(心が)向かう対象、外の事物。
- 好悪:好ましいことと厭わしいこと。
- 是非:正しいことと誤っていること。
- 痛痒:痛みとかゆみ。
- 霊性:霊知と同じものを指す。
- もぬけて:(蝉が殻を脱ぐように)抜け出て。
- かしこ:あちら、別の所。
- この段は、【1】で問う人が持ち出した「心性は常住で、身は仮のすがた」という説と、ここで禅師が述べる先尼外道の見とが、同じ形であることを示している。
【4】(答10の三)それなのに、この見を習って仏法とするのは、瓦礫を握って金宝と思うよりも、なお愚かである。癡迷の恥ずべきことは、たとえようもない。大唐国の慧忠国師も、深く戒めている。いま、心常相滅の邪見を思いはかって(それを)諸仏の妙法と等しいものとし、生死の本因を起こしながら、生死を離れたと思うのは、愚かではないか。もっとも哀れむべきことである。ただ、これは外道の邪見であると知れ。耳に触れさせてはならない。
語注
- にぎつて:「にぎりて」の音便で、「握って」。
- 瓦礫:かわらや小石。値打ちのないもののたとえ。
- 金宝:黄金や宝。宗務庁版英訳の注は「黄金の宝」とも取れるとする。
- 癡迷:おろかで迷っていること。
- 慧忠国師:宗務庁版英訳の注によれば、南陽慧忠(775年没)、六祖の弟子。先尼外道の見を仏法と取り違えることへの慧忠の戒めは『景徳伝灯録』に見え、道元禅師は『正法眼蔵』「即心是仏」の巻でこれを引く(宗務庁版英訳による)。本山版の「即心是仏」の巻には「大唐国大証国師慧忠和尚」としてその問答が引かれている。
- 心常相滅:心は常住で、相(すがた、ここでは身)は滅する、という見。【1】の問う人の説をひとことでまとめた語。【5】の「身滅心常」(身は滅し、心は常住)と同じ趣旨(→読みの分かれるところ)。
- 邪見:誤った見解。
- 計して:(誤って)思いはかり、考え立てて。
- 妙法:すぐれた法。
- 生死の本因:生死(迷いの生存)の根本の原因(→読みの分かれるところ)。
- もともあはれむべし:もっとも哀れむべきである。
- みみにふるべからず:耳に触れさせてはならない、聞き入れてはならない。
【5】(答10の四)やむを得ず、今なお哀れみを垂れて、おまえの邪見を救うとすれば、知るがよい。仏法では、もとより身心一如であって、性相不二であると説く。(これは)西天・東地が同じく知るところであって、決して食い違うことはない。まして、常住を説く門では、万法がみな常住であって、身と心とを分けることはない。寂滅を説く門では、諸法がみな寂滅であって、性と相とを分けることはない。それなのに、どうして身滅心常(身は滅し、心は常住である)と言えようか。正理に背かないであろうか(背いている)。そればかりではない。生死はそのまま涅槃であると覚了すべきである。(仏法では)いまだかつて、生死のほかに涅槃を説いたことはない。まして、心は身を離れて常住であると領解することによって、(それを)生死を離れた仏智であると妄計したとしても、その領解・智覚の心は、やはり生滅していて、まったく常住ではない。これは、はかないことではないか。
語注
- ことやむことをえず:やむを得ず、仕方なく。
- なんぢ:おまえ、あなた。問う人を指す。
- すくはば:救うとすれば。「しるべし」以下へ続く条件の句として訳した。
- 身心一如:身と心とが一つであって、分けられないこと。
- 性相不二:性(本性、本質)と相(すがた、現れ)とが二つではないこと。
- 西天東地:西天はインド、東地は中国。
- あへてたがふべからず:「たがふ」は「違ふ」。(インドでも中国でも)決して食い違うことはない(→読みの分かれるところ)。
- 常住を談ずる門・寂滅を談ずる門:常住(常にあって変わらない)という面から説く教え、寂滅という面から説く教え。「門」は教えの入り口、教え方の立場。どちらの立場で説いても、身と心、性と相を分けることはない、という論の運び。
- 万法・諸法:あらゆる存在・事象。
- 寂滅:煩悩が消え、静まったありさま。涅槃のこと。
- 身滅心常:身は滅び、心は常住である、という見。【4】の「心常相滅」と同じ趣旨。
- 正理:正しい道理。
- 生死はすなはち涅槃なり:生死がそのまま涅槃である。生死を離れたところに涅槃があるのではない、ということ。いわゆる「生死即涅槃」。
- 涅槃:煩悩の火が吹き消された境地、さとり。
- 覚了:さとり、はっきりと知ること。
- 領解:理解して受けとめること。
- 妄計:誤って思いはかること、思いこむこと。
- 仏智:仏の智慧。
- 領解智覚:理解して受けとめ、(智として)覚ること。「智覚」は直前の「仏智」を受けて、(仏の)智として覚ったつもりのもの、の意にとれる。訳では「領解」と「智覚」を並べて「領解・智覚の心」とした(→読みの分かれるところ)。
- はかなき:頼りにならない、取るに足りない(→読みの分かれるところ)。
【6】(答10の五)試みに観てみよ。身心一如の趣旨は、仏法が常に説くところである。それなのに、どうして、この身が生滅するときに、心だけが身を離れて生滅しないことがあろうか。もし(身と心が)一如であるときがあり、一如でないときがあるならば、仏の説はおのずから虚妄になってしまうだろう。また、生死は除き去るべき法であると思うのは、仏法を厭う罪となる。慎まないでよいだろうか(慎むべきである)。
語注
- 嘗観:試みに観ること。「嘗」はこころみる。宗務庁版英訳も「見ようと試みる」の意に訳す。
- 虚妄:うそいつわり、真実でないこと。
- 仏説:仏の説いた教え。
- のぞくべき法:取り除くべきもの。「法」はここでは事柄、存在。
- いとふ:厭う、嫌って遠ざける。
【7】(答10の六)知るがよい。仏法で心性大総相の法門というのは、一大法界をこめて(包みこんで)、性と相とを分けず、生滅を言うことがない。菩提・涅槃に至るまで、心性でないものはない。一切諸法・万象森羅は、みなただこの一心であって、こめない(含まない)もの、かねない(兼ねない)ものはない。これらもろもろの法門は、みな平等の一心である。決して異なり違うことはない、と説く。これがすなわち、仏家が心性を知っている様子である。
語注
- 心性大総相の法門:心性を、あらゆるものを総べくくる大いなる総相(全体としてのすがた)として説く教え。宗務庁版英訳の注は、法界全体の究極の本性を一つのものとして扱う教えとし、『大乗起信論』で、心真如を「一法界大総相法門の体」とし、心性は生滅しない、と説く一節を踏まえるか、とする(宗務庁版英訳による)。
- 心性:ここでは禅師の説く意味。身と心、性と相、生死と涅槃を分けず、一大法界をすべて含むものとしての心性。【1】の問う人の言う、身から離れて残る心性とは異なる。
- 一大法界:一つの大いなる法界。あらゆる世界、存在の全体。
- こめて:込めて、包みこんで。
- 性相をわかず:性(本性)と相(すがた)とを分けない(【5】語注「性相不二」参照)。
- 菩提涅槃:さとり(菩提)と涅槃。
- 一切諸法:あらゆる存在・事象。
- 万象森羅:宇宙のあらゆるもの。木々が茂り立ち並ぶさまにたとえた、よく使われる言い方。「ばんぞうしんら」とも読む(宗務庁版英訳による)。
- 一心:ただ一つの心。ここでは、あらゆるものがそれであるところの心。
- こめずかねざることなし:こめない(含みこまない)もの、かねない(兼ね合わせない)ものはない。すべてを含み、ひとつに兼ねている、の意。
- 法門:仏の教え。ここでは、前文の「一切諸法・万象森羅」を言いかえたものとも、仏の説くさまざまな教えとも取れる(→読みの分かれるところ)。
- 平等:差別なく一様であること。
- 異違:異なり、違うこと。
- 仏家:仏の家。仏法を伝える者たちの世界。
- 様子:ありさま。宗務庁版英訳は「しるし」の意に訳す(→読みの分かれるところ)。
【8】(答10の七)それなのに、この一法において、身と心とを分別し、生死と涅槃とを分けることがあろうか(あるはずがない)。(あなたは)すでに仏子である。外道の見を語る狂人の舌の響きを、耳に触れさせてはならない。
語注
- 一法:一つの法。【7】で説いた、すべてが平等の一心であることを指す。
- 分別:分け隔てること。
- 仏子:仏の子。仏弟子、仏の教えを受け継ぐ者(→読みの分かれるところ)。
- 狂人のしたのひびき:正気でない者の舌の響き、すなわち、その者が語ることば。先尼外道の見を説く者のことばを、きびしく退けて言う。
解説#
はじめに――問7〜問9から、問10へ#
前回の段では、「すでにさとった人に、坐禅は要るのか」という問7を中心に読みました。禅師は、修と証とを二つに分ける見方を「外道の見」として退け、「仏法には、修証これ一等なり」(本書第五回)と示されました。初心の修行がそのまま本証の全体であり、「修のほかに証をまつおもひなかれ」(本書第五回)。さとりは坐禅の先で待っているものではなく、坐禅の中にある、という教えでした。
今回の問10は、一見すると、話の向きががらりと変わったように見えます。問う人が持ち出すのは、坐禅のことではなく、「生死」、生まれて死ぬということ、そして、死んだあと私たちはどうなるのか、という問いにかかわる説だからです。
その説はこうです。からだは生まれた以上いつか必ず滅びる。けれども、心の本性(心性)は滅びることがない。からだは仮の宿にすぎず、心こそがほんとうの自分であって、過去・現在・未来を通じて変わらない。このことをはっきり知りさえすれば、生死を離れたことになる。だから、坐ってむなしく一生を過ごすより、急いでこの道理を知るべきだ、と。
禅師はこれを、「いまいふところの見、またく仏法にあらず、先尼外道が見なり」(原文【2】)と、ひとことで退けられます。そして、仏法では「身心一如」、からだと心とは一つであり、「性相不二」、本性とすがたとは二つではない、と説くのだ、と示されます。今回の段の中心は、この「身心一如」という言葉です。
からだは滅びても魂は残るのではないか。亡くなった人の心は、どこかで生き続けているのではないか。これは、現代に生きる私たちにとっても、決して遠い問いではありません。身近な人を見送ったとき、あるいは自分の老いや病に向き合ったとき、多くの人が一度は心に抱く問いでしょう。問う人の説は、そうした私たちの思いに、とても近いところにあります。だからこそ、この段は丁寧に読む必要があります。
はじめに、一つだけお断りしておきたいことがあります。この段で禅師が退けておられるのは、あくまでも、「からだを離れて、変わらずに残りつづける心の実体がある。それを知ることが、そのまま生死を離れること(解脱)である」という考え方です。この段は、死後に何があるのか、ないのかを、それとして全面的に論じた箇所ではありません。また、この段は、亡き人を弔う葬儀や供養のいとなみを否定する箇所でもありません。死後のことをどう受けとめるかという問いは、この段の本文が語る範囲を越えますので、本解説では断定することを控え、本文が何を退け、何を示しているかを読むことに努めます。
今回の段では、次のように読み進めます。
- 【1】(問10) 問う人の説――心性は常住で、身は仮のすがた
- 【2】【3】(答10の一・二) 先尼外道の見
- 【4】〜【6】(答10の三〜五) 身心一如・性相不二
- 【7】(答10の六) 心性大総相の法門
- 【8】(答10の七) 仏子として
【1】(問10)問う人の説#
生死を出離する、すみやかなみち#
問いは、こう始まります。「とふていはく、あるがいはく、生死をなげくことなかれ、生死を出離するにいとすみやかなるみちあり。いはゆる、心性の常住なることはりをしるなり」(原文【1】)。
ある人が言うには、生死を嘆くことはない。生死を抜け出るのに、たいへん速やかな道がある。それは、心の本性が常住である、という道理を知ることだ、と。
ここで問う人は、自分の考えとしてではなく、「あるがいはく」、ある人の説として話を持ち出しています。この「ある人」の言葉がどこまで続くのかについては、読みに幅があります(→読みの分かれるところ)。宗務庁版英訳の注では、「ある人」の言葉として引かれているのは初めの二文だけで、「そのむねたらく」以下は問う人自身の説明かもしれない、とされています。けれども、どちらに読むにしても、ここに述べられているのが禅師の説ではなく、問う人(あるいは「ある人」)の説であることに変わりはありません。
「生死をなげくことなかれ」という書き出しは、心に響く言葉です。生まれ、老い、病み、死んでゆく。そのことを嘆き、恐れるのは、人として自然な思いでしょう。その嘆きに向かって、「嘆かなくてよい、すぐに抜け出せる道がある」と語りかける。この説が人の心をひきつけるのは、よくわかります。
身はかりのすがた、心は常住#
その説の中身は、こう続きます。この身体は、生まれた以上、必ず滅へと移ってゆく。けれども、この心性は決して滅することがない。滅びることのない心性がわが身にあると知れば、それを「本来の性」、ほんとうの自分とするのだから、「身はこれかりのすがたなり、死此生彼さだまりなし。心はこれ常住なり、去来現在かはるべからず」(原文【1】)。
からだは仮のすがたであって、ここで死に、かしこに生まれて、定まることがない。心は常住であって、過去・未来・現在にわたって変わることがない、と。「死此生彼」は、宗務庁版英訳の注によれば、一つの生で死に、別の生に生まれかわることを言う定まった言い方です。
ここには、はっきりとした一つの図式があります。からだと心とを二つに分け、からだを移ろいゆく仮のもの、心を変わらない本物とする図式です。からだは、心がしばらく宿っている家のようなものであり、家が古びて壊れても、住む人は出ていって、また別の家に住む。私たちが「魂」という言葉で思い描くものも、多くはこれに近い形をしているのではないでしょうか。
性海にいる――妙徳は身の終わるときに#
説はさらに続きます。「このむねをしるものは、従来の生死ながくたえて、この身をはるとき性海にいる。性海に朝宗するとき、諸仏如来のごとく、妙徳まさにそなはる」(原文【1】)。
この道理を知る者は、これまでの生死が永く絶え、この身が終わるとき「性海」に入る。宗務庁版英訳の注によれば、性海とは、仏性・法性を海にたとえた語で、究極の真如の世界を言います。川が海へ流れ入るように、心性が性海へと帰ってゆくとき、諸仏如来のように、すぐれた徳がまさに具わる、というのです。
ただし、と説は付け加えます。「いまはたとひしるといへども、前世の妄業になされたる身体なるがゆゑに、諸聖とひとしからず」(原文【1】)。今はこの道理を知っていても、前世の迷いの業によってつくられた身体であるから、もろもろの聖者と等しくはない、と。
ここに、前回の段とのつながりが見えてきます。この説では、仏と等しい徳が具わるのは、「この身をはるとき」、つまり死んだあとのことです。生きている今は、からだという足かせがあるために、まだ聖者に及ばない。仏と等しい徳は、からだを脱ぎ捨てた先にある、というのです。
前回の段で禅師は、「初心の辦道すなはち本証の全体なり」(本書第五回)と示されました。はじめたばかりの人の修行が、そのまま本来の証の全体である、と。さとりを「この先」に置いて待つことを、禅師は「修のほかに証をまつおもひなかれ」と戒められたのでした。問10の説は、仏と等しい妙徳を「死のあと」に置いて待ちます。形は違っても、今ここの身を離れたところに証を置くという点で、問7の問いと同じ根をもっていると言えるかもしれません。
いたづらに閑坐して#
説の結びは、こうです。「しかあればすなはち、ただいそぎて心性の常住なるむねを了知すべし。いたづらに閑坐して一生をすぐさん、なにのまつところかあらん」(原文【1】)。
だから、ただ急いで、心性が常住であるという道理を了知すべきである。むなしく閑坐して一生を過ごしたところで、何を待つところがあろうか、と。
この「閑坐」をどう受けとめるかには、幅があります(→読みの分かれるところ)。禅師が勧める坐禅の修行を指して、「むだに坐っている」と揶揄していると取ることもできますし、一般に、何もせずに静かに坐って過ごすこと、と取ることもできます。宗務庁版英訳は「idly sitting in vain」と訳しています。
どちらに取るにしても、この説の立場ははっきりしています。大切なのは「知ること」であって、坐ることではない。道理を頭でつかめば、それで生死を離れられる。坐って時を過ごすのは、むだなことだ、というのです。弁道話がここまで一貫して坐禅を説いてきたことを思えば、この説は、坐禅という修行そのものを不要とするものとして、問う人から差し出されていると受けとめてよいでしょう。
そして問う人は、「かくのごとくいふむね、これはまことに諸仏諸祖の道にかなへりや、いかん」(原文【1】)と尋ねます。このような説は、ほんとうに諸仏諸祖の道にかなっているのか、と。
【2】【3】(答10の一・二)先尼外道の見#
またく仏法にあらず#
禅師の答えは、きわめて短く、きっぱりとしています。「しめしていはく、いまいふところの見、またく仏法にあらず、先尼外道が見なり」(原文【2】)。
いまあなたが言う見解は、まったく仏法ではない。先尼外道の見である、と。
これまでの問答で、禅師は多くの場合、問う人の疑いをいったん受けとめ、筋道を立てて答えてこられました。前回の問7でも、「癡人のまへにゆめをとかず……といへども、さらに訓をたるべし」(本書第五回)と前置きして、丁寧に語りはじめておられます。それに比べて、この答えの書き出しの厳しさは、ひときわ目をひきます。それだけ、この見を仏法と取り違えることが、仏道にとって根本的な誤りだと見ておられた、ということでしょう。
「先尼外道」について、宗務庁版英訳の注は次のように説明しています。「外道」は仏教以外の教え(ここではインドのバラモンの教え)を言い、「先尼」は『大般涅槃経』に出てくるバラモンの名で、身から身へと生まれかわってゆく自己があると主張した者である、と。そして、道元禅師は『正法眼蔵』のいくつかの巻でこの見に触れている、とも記しています。本山版でも、「即心是仏」や「仏性」の巻に先尼外道の名が見えます。
わが身のうちの霊知#
禅師は続けて、その外道の見がどのようなものかを説明されます。「いはく、かの外道の見は、わが身うちにひとつの霊知あり、かの知、すなはち縁にあふところに、よく好悪をわきまへ、是非をわきまふ。痛痒をしり、苦楽をしる、みなかの霊知のちからなり」(原文【3】)。
わが身の内に一つの「霊知」、霊妙な知のはたらきがある。それが外の物事に出会うと、好ましいものと厭わしいものとを見分け、正しいことと誤ったこととを見分ける。痛みやかゆみを知り、苦しみや楽しみを知る。それはみな、この霊知の力である、と。
この冒頭の「いはく」を、禅師が外道の見を説明して言う、と取るか、外道の側が言う、と取るかには、わずかな幅があります。けれども、どちらに取っても、ここに述べられているのが外道の見の内容であることに変わりはありません。
「しかあるに、かの霊性は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにうまるるゆゑに、ここに滅すとみゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり」(原文【3】)。
その霊性は、この身が滅するとき、蝉が殻を脱ぐように抜け出して、別のところに生まれる。だから、ここで滅したように見えても、かしこでの生があるのだから、永く滅することなく常住である、と言うのだ、と。
こうして並べてみると、【1】で問う人が持ち出した説と、ここで禅師が述べる先尼外道の見とが、まったく同じ形をしていることがわかります。からだと心とを分け、からだは滅びても心は抜け出して残る、とする形です。禅師は、問う人の説の中身を一つひとつ論ずるより先に、まず、その説が昔からある外道の見と同じ形をしている、ということを示されたのです。
即心是仏の巻に見える、同じ見#
同じ見について、禅師は「即心是仏」の巻で、さらに詳しく述べておられます。本山版の本文から、ごく一部だけ引いてみます。
先尼外道の見処として、「たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舎の失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし」とあります。たとえからだのすがたは破れても、霊知は破れずに出てゆく。たとえば、家が火事で焼けるとき、家の主人が出ていってしまうようなものだ、と。
さらに、その見は、この本性をさとれば「さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に証入するなり」とも言う、と述べられています。問10の問う人が「この身をはるとき性海にいる」と言っていたことと、驚くほどよく重なっています。
からだを家に、心を家の主人にたとえる。この「家と主人」のたとえは、私たちがふだん何気なく思い描いている「からだと魂」の関係を、そのまま言い当てているように思われます。私たちになじみ深い考え方が、禅師が先尼外道の見として退けられる見と、よく似た形をしていることに気づかされます。ただし、この段で退けられているのは、先に述べたとおり、からだを離れて変わらずに残る心を立て、それを知ることで生死を離れたとする見方です。
【4】〜【6】(答10の三〜五)身心一如・性相不二#
瓦礫をにぎつて金宝とおもはん#
「しかあるを、この見をならふて仏法とせん、瓦礫をにぎつて金宝とおもはんよりもなほおろかなり。癡迷のはづべき、たとふるにものなし」(原文【4】)。
それなのに、この見を習って仏法とするのは、瓦礫を握って黄金や宝と思うよりも、なお愚かである。その迷いの恥ずべきことは、たとえようもない、と。
「にぎつて」は「にぎりて」の音便で、「握って」という意味です。
瓦礫を宝と思い違える、というたとえは、厳しい言葉です。けれども、ここで禅師が「瓦礫」と言われているのは、問う人その人ではなく、「この見」を仏法と取り違えることです。しかも、この見は、先に見たように、私たちにとってごく自然に思われる考え方でした。自然に思われるからこそ、宝のように見えて手放しにくい。禅師の言葉の厳しさは、その取り違えのたやすさ、根の深さを見すえてのものと受けとめることができるでしょう。
ここで思い起こしたいのは、弁道話の前半に、よく似た言い回しがあったことです。問4(教の殊劣)への答えの中で、禅師は、私たちがみだりに知見をおこしてさまざまな見を立てることを述べたあと、「この知見をならふて、仏法修行の正道とおもふべからず」(本書第四回)と言われ、続けて「いまはまさしく仏印によりて万事を放下し、一向に坐禅するとき」と、坐禅へと話を向けておられました。頭の中でこしらえた見を「習って」仏法とすることを戒め、坐禅を示す。問10の答えも、同じ筋の上にあると言えるでしょう。
慧忠国師のいましめ#
「大唐国の慧忠国師、ふかくいましめたり」(原文【4】)。
宗務庁版英訳の注によれば、慧忠国師は南陽慧忠(775年没)、六祖慧能の弟子で、先尼外道の見を仏法と取り違えることへの慧忠の戒めは『景徳伝灯録』に見え、道元禅師は「即心是仏」の巻でこれを引いている、とされています。
本山版の「即心是仏」の巻では、「大唐国大証国師慧忠和尚」として、その問答が引かれています。南方から来た僧が、南方の師たちの教えとして、「此の身は即ち生滅あり、心性は無始より以来、未だ曾て生滅せず」、「即ち身は是れ無常なり、其の性は常なり」と語るのに対して、国師は「若し然らば、彼の先尼外道と差別有ること無けん」、もしそうならば、あの先尼外道と違いがない、と答えておられます。そして、先尼外道の見を「舎の焼かるれば、舎主出で去るが如し。舎は即ち無常なり、舎主は常なり」と言い表しておられます。
この問答を受けて、禅師は「即心是仏」の巻で、「国師のしめす宗旨をあきらめて、参学の亀鑑とすべし。先尼外道が見処としりてしたがふことなかれ」と記しておられます。
「からだは生滅するが、心性は生滅しない」。問10の問う人の説と、慧忠国師の前で南方の僧が語った教えとは、ほとんど同じ言葉で語られています。禅師にとってこの見は、遠いインドの昔話ではなく、禅を学ぶ者のあいだにさえ入りこんでいた、身近な誤りだったのでしょう。だからこそ、慧忠国師の戒めを引いて、深く注意をうながされたのだと思われます。
心常相滅の邪見#
「いま心常相滅の邪見を計して、諸仏の妙法にひとしめ、生死の本因をおこして、生死をはなれたりとおもはん、おろかなるにあらずや、もともあはれむべし。ただこれ外道の邪見なりとしれ、みみにふるべからず」(原文【4】)。
「心常相滅」とは、心は常住で、相(すがた)は滅する、という見です。「相」を、からだのことと取るか、現れ・すがた一般と取るかには幅がありますが(→読みの分かれるところ)、【5】の「身滅心常」(身は滅し、心は常住)と同じ趣旨の語と見てよいでしょう。
ここで目をとめたいのは、「生死の本因をおこして、生死をはなれたりとおもはん」という一句です。生死の根本の原因を起こしながら、生死を離れたと思う。この句の受けとめ方にも幅があります(→読みの分かれるところ)。この見を立てること自体が生死の根本の原因を起こしている、と取ることもできますし、生死の原因(迷いや煩悩)はそのままにしておいて、道理を知っただけで生死を離れたと思っている、と取ることもできます。宗務庁版英訳は、前者に近い形で訳しています。
どちらに取っても、問う人の説の皮肉なところが、ここに言い当てられています。問う人は、生死を離れるための「すみやかなるみち」として、この説を持ち出しました。けれども禅師は、その説こそが、かえって生死に縛りつけるものだ、と言われるのです。
「生死」の巻にも、よく響き合う言葉があります。「もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり」。生死のほかに仏を求めるのは、車の轅(ながえ)を北に向けて南の越の国へ向かうようなもので、いよいよ生死の因を集め、かえって解脱の道を失う、と。生死から逃れようとして、生死の外に何か確かなものを求めるとき、かえって生死の迷いを深めてしまう。弁道話のこの一句も、とくに前者の読み(この見を立てること自体が生死の本因を起こしている)をとるならば、そうした方向で受けとめることができるように思います。
あはれみをたれて#
こうしてきびしく退けたあとで、禅師は語調を変えられます。「ことやむことをえず、いまなほあはれみをたれて、なんぢが邪見をすくはば」(原文【5】)。
やむを得ず、今なお哀れみを垂れて、あなたの邪見を救うとすれば、と。「すくはば」は「救うとすれば」で、「あなたの邪見を救うとすれば、知るがよい」と、次の「しるべし」以下へ続く形になります。禅師がここで、問う人を見捨てずに、なお教えを説こうとされていることがうかがわれます。
「みみにふるべからず」、耳を貸すな、と言い切ったあとで、それでも哀れみを垂れて説く。前回の問7の答えのはじめ、「といへども、さらに訓をたるべし」とも重なる姿です。
身心一如にして、性相不二#
そして、この段の中心となる言葉が示されます。「しるべし、仏法には、もとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる、西天東地おなじくしれるところ、あへてたがふべからず」(原文【5】)。
知るがよい。仏法では、もとより身心一如であり、性相不二であると説く。これはインドでも中国でも同じく知られているところであって、決して食い違うことはない、と。
最後の「あへてたがふべからず」の「たがふ」は「違ふ」で、(インドでも中国でも)少しも食い違うことはない、という意味になります。身心一如・性相不二が、仏法において古くから変わらず説かれてきたことだ、というのです。
「身心一如」とは、からだと心とが一つであって、分けられないということです。「性相不二」とは、性(本性、本質)と相(すがた、現れ)とが二つではない、ということです。問う人の説は、からだと心とを分け(これを相と性とに当てて読むこともできます。→読みの分かれるところ)、一方を仮のもの、もう一方を本物としていました。禅師は、その「分ける」ということそのものが、仏法の見方ではない、と示されるのです。
禅師はさらに、「いはんや常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心とをわくことなし。寂滅を談ずる門には、諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし」(原文【5】)と続けられます。
常住(常にあって変わらない)という面から説く教えでは、万法がみな常住であって、身と心とを分けることはない。寂滅という面から説く教えでは、諸法がみな寂滅であって、性と相とを分けることはない、と。この「常住を談ずる門」「寂滅を談ずる門」が具体的に何を指すのかには、読みの幅がありますし、冒頭の「いはんや」の論理のつなぎ方にも幅があります。けれども、ここでの論の運びははっきりしています。
問う人の説は、「心は常住、身は滅する」と、常住と滅とを、心とからだとに割りふっていました。禅師は言われます。もし常住という立場で語るならば、すべてが常住であって、心だけが常住なのではない。もし寂滅という立場で語るならば、すべてが寂滅であって、からだだけが滅するのではない。どちらの立場から語るにしても、身と心、性と相とを分けて、一方だけに常住を、一方だけに滅を割りあてることはできない、と。「しかあるを、なんぞ身滅心常といはん、正理にそむかざらんや」(原文【5】)。それなのに、どうして身は滅し心は常住だなどと言えようか。正しい道理に背いているではないか、と。
生死はすなはち涅槃なり#
「しかのみならず、生死はすなはち涅槃なりと覚了すべし、いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし」(原文【5】)。
そればかりではない。生死はそのまま涅槃であると覚りなさい。仏法では、生死のほかに涅槃を説いたことはない、と。
問う人は、生死を「出離する」、抜け出すべきものと考えていました。生死の外に、性海という安らぎの世界があり、そこへ帰ってゆくことが解脱だ、と。禅師は、その「生死の外」という考え方を退けられます。涅槃は、生死を離れたどこか別のところにあるのではない。
「生死」の巻には、「ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり」とあります。生死をそのまま涅槃と心得て、生死として厭うべきものもなく、涅槃として願うべきものもない。そのとき、はじめて生死を離れる分がある、と。
ここで「生死をはなるる」と言われていることに、注意したいと思います。禅師は、生死を離れることを否定しておられるのではありません。けれども、それは、からだを脱ぎ捨てて生死の外へ出てゆくことではなく、生死をそのまま涅槃と受けとめ、厭うことも願うこともなくなるところに開かれる、というのです。
領解智覚の心もまた生滅する#
【5】の結びで、禅師は、問う人の説の足もとを、もう一歩深く掘り下げられます。「いはんや心は身をはなれて常住なりと領解するをもて、生死をはなれたる仏智に妄計すといふとも、この領解智覚の心は、すなはちなほ生滅して、またく常住ならず。これ、はかなきにあらずや」(原文【5】)。
まして、心は身を離れて常住であると理解して、それを生死を離れた仏の智慧だと思いこんだとしても、その理解し、智として覚ったつもりの心そのものは、やはり生じては滅しており、まったく常住ではない。これは、はかないことではないか、と。
「領解智覚」の「智覚」は、直前の「仏智」を受けて、仏の智慧として覚ったつもりの心、という含みに読めます。また「はかなき」を、取るに足りない・愚かな、と取るか、あてにならない・むなしい、と取るかにも幅があります(→読みの分かれるところ)。宗務庁版英訳は「ludicrous」と訳しています。
この一文は、たいへん鋭い指摘です。問う人の説は、「心は常住だと知ること」によって生死を離れる、というものでした。けれども、その「知る」ということは、いったい何がしているのか。知る、理解する、わかった、と思う。そのはたらき自体は、ある時に起こり、ある時には消えてゆく、移ろいゆく心のはたらきにほかなりません。今日わかったと思ったことも、明日には忘れたり、ゆらいだりする。移ろいゆく心で「常住なる心」をつかんだと思っても、そのつかんだ手そのものが移ろっている。これでは、何も確かなものを得たことにはならない、というのです。
ここに、この段が坐禅とどう結びつくかの、一つの鍵があるように思われます。問う人は、「坐っているより、道理を知れ」と言いました。けれども禅師は、「知る」ことによってつかんだものは、つかむ心とともに生滅してしまう、と示されます。仏道は、頭で道理を理解し、それを握りしめることで成り立つものではない。前回の段で見た「修のほかに証をまつおもひなかれ」という教えと合わせて読むとき、ここでも、からだを置き去りにした「知ること」ではなく、身と心とをあげて行ずる坐禅へと、道が指し示されていると受けとめることができるでしょう。
一如なるときあり、一如ならぬときあらば#
【6】で、禅師はあらためて身心一如を念を押されます。「嘗観すべし、身心一如のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。しかあるに、なんぞこの身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて生滅せざらん」(原文【6】)。
試みに観てみなさい。身心一如ということは、仏法が常に説くところである。それなのに、どうしてこの身が生滅するときに、心だけが身を離れて生滅しないことがあろうか、と。「嘗観」を「試みに観よ」と取るか、「よく観察せよ」と取るかには、わずかな幅があります。
「もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、仏説おのづから虚妄になりぬべし」(原文【6】)。もし、身と心とが一つであるときがあり、一つでないときがあるならば、仏の説はおのずから偽りになってしまうだろう、と。
この一文は、身心一如ということを、ごまかしなく最後まで貫いておられる言葉です。ふだん、生きているあいだは「身心一如」と言いながら、死ぬときになると「からだは滅びても、心は別」と言う。それでは、身心一如は、都合のよいときだけの言葉になってしまう。一如であるならば、生きているときも、死ぬときも、一如でなければならない。禅師は、そう言われるのです。
私たちは、ともすると、「からだと心はつながっている」ということを、健康法や心の持ち方の話として受けとめがちです。からだを整えれば心も落ち着く、心が沈めばからだも重くなる、というように。それも一つの実感でしょう。けれども、禅師がここで言われる身心一如は、そうした「からだと心の関係のよさ」を言うものではありません。からだと心とを、もともと二つのものとして立てたうえで、その二つがよくつながっている、というのではない。はじめから、分けることのできない一つのものとして生き、一つのものとして生滅している、ということです。
生死はのぞくべき法ぞとおもへるは#
「又生死はのぞくべき法ぞとおもへるは、仏法をいとふつみとなる。つつしまざらんや」(原文【6】)。
また、生死は除き去るべきものだと思うのは、仏法を厭う罪となる。慎まないでよいだろうか、と。
生死を嫌い、そこから逃げ出そうとすることが、なぜ「仏法をいとふ」ことになるのでしょうか。【5】で禅師は、「生死はすなはち涅槃なり」と示されました。生死がそのまま涅槃であるならば、生死を嫌って除こうとすることは、そのまま仏法を嫌って除こうとすることになる。そういう論の運びと受けとめることができます。
「生死」の巻には、「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり」とあります。生まれて死んでゆくこの生死は、そのまま仏の御いのちである。これを厭い捨てようとすれば、仏の御いのちを失おうとすることになる、と。弁道話のこの一文と、深く響き合う言葉として読むことができます。
このことは、日々の暮らしの中で、私たちが老いや病や死をどう受けとめるかにも、静かに問いかけてくるように思います。老いてゆくからだ、病むからだを、「本当の自分ではない仮のもの」として遠ざけ、その奥にある変わらない自分に逃げこもうとする。問う人の説は、そうした逃げ道を差し出していました。禅師は、その逃げ道を閉ざされます。けれども、それは、突き放すためではないでしょう。老いるからだも、病むからだも、そのまま仏法の中にある。だからこそ、厭うことなく、この身このままで仏道を歩むことができる。そういう道を開くための言葉として、受けとめたいと思います。
【7】(答10の六)心性大総相の法門#
仏家の心性#
【7】で禅師は、問う人が使っていた「心性」という言葉を、あらためて取りあげられます。「しるべし、仏法に心性大総相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし」(原文【7】)。
知るがよい。仏法で「心性大総相の法門」というのは、一つの大いなる法界をすべて包みこんで、性と相とを分けず、生滅を言うことがない。菩提・涅槃に至るまで、心性でないものはない、と。
ここで注意したいのは、【1】で問う人が言った「心性」と、ここで禅師が言われる「心性」とでは、同じ言葉でも、指しているものがまったく違うということです(→読みの分かれるところ)。問う人の「心性」は、からだから離れて残る、不滅の心の本体でした。からだの中に閉じこもり、からだが滅びると抜け出してゆく、いわば小さな「わたし」の核です。それに対して禅師の言われる「心性」は、一大法界をこめて、性と相とを分けず、菩提も涅槃も含めて、あらゆるものをそのうちに収めるものです。からだと心、生と死、迷いとさとり、そのどれをも外に置かない。
同じ語を別の意味で用いていると見ることもできますし、禅師が問う人の語をあえて取りあげ直して、「心性」の正しい意味を示しておられると見ることもできるでしょう。いずれにしても、読む私たちは、この二つの「心性」を混同しないように気をつけたいと思います。
「心性大総相の法門」という言葉について、宗務庁版英訳の注は、法界全体の究極の本性を一つのものとして扱う教えを言うとし、『大乗起信論』に見える語との関連の可能性を、推測の形で示しています(ただし、語の形は同じではありません)。本解説では、その論書の内容には立ち入らず、弁道話の本文がこの言葉で何を示しているかを読むことにとどめます。
一切諸法、万象森羅、ともにただこれ一心#
「一切諸法、万象森羅、ともにただこれ一心にして、こめずかねざることなし。このもろもろの法門、みな平等一心なり。あへて異違なしと談ずる、これすなはち仏家の心性をしれる様子なり」(原文【7】)。
あらゆる存在、宇宙の森羅万象は、みなただこの一心であって、含みこまないもの、兼ね合わせないものはない。これらもろもろの法門は、みな平等の一心である。決して異なり違うことはないと説く、これこそが、仏家が心性を知っているありさまである、と。
「こめずかねざることなし」の主語の取り方、「法門」が何を指すか、「様子」を「ありさま」と取るか「しるし」と取るかには、それぞれ読みの幅があります(→読みの分かれるところ)。けれども、この一節全体の向きははっきりしています。
「万象森羅」とは、宗務庁版英訳の注によれば、木々が茂り立ち並ぶさまにたとえて、宇宙のあらゆるものを言う、よく使われる言い方です。山も川も、草も木も、からだも心も、生も死も、そのすべてが「ただこれ一心」である。問う人の言う「心」は、からだの内に一つだけあって、からだと対立するものでした。禅師の言われる「一心」は、からだも含め、あらゆるものがそれであるところの心です。心がからだの中にあるのではなく、からだも、からだをとりまく世界も、ともにこの一心のうちにある、と言ってもよいかもしれません。
このように見るとき、「からだが滅びても心は残る」という問いの立て方そのものが、成り立たなくなります。一心がすべてを含み、性と相とを分けず、生滅を言わないのであれば、からだの側だけが滅び、心の側だけが残る、という分け方をする余地が、はじめからないからです。
【8】(答10の七)仏子として#
「しかあるを、この一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらんや」(原文【8】)。
それなのに、この一つの法において、身と心とを分け隔て、生死と涅槃とを分けることがあろうか、と。「この一法」が、【7】で説いた平等の一心を指すのか、心性大総相の法門、すなわち仏法そのものを指すのかには、幅があります。いずれにしても、すべてが一つである法の中で、身と心、生死と涅槃とを切り分けることはできない、という結論に変わりはありません。
そして、問10への答えは、こう結ばれます。「すでに仏子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひびきをみみにふるることなかれ」(原文【8】)。
すでに仏子である。外道の見を語る狂人の舌の響きを、耳に触れさせてはならない、と。
「すでに仏子なり」の主語を、問う人(あなたはすでに仏子である)と取るか、われわれ(私たちはすでに仏子である)と取るかには、幅があります(→読みの分かれるところ)。宗務庁版英訳は「Since we are children of the Buddha」と、われわれを主語にして訳しています。問う人への戒めとして読めば、「あなたはもう仏の子なのだから」という、呼びかけの言葉になります。われわれと読めば、禅師ご自身も含めて、仏の教えを受け継ぐ者すべてに向けられた言葉となります。
どちらに取るにしても、「すでに」という一語に心をとめたいと思います。問う人の説では、仏と等しい徳が具わるのは「この身をはるとき」、死んだあとのことでした。生きている今は、前世の妄業による身体のために、まだ聖者に及ばない、と。それに対して禅師は、「すでに仏子なり」と言われます。死んだあとではなく、からだを脱ぎ捨てたあとでもなく、この身このままで、すでに仏の子である、と、問う人の説と対比して読むことができるでしょう。
これは、前回の段の「初心の辦道すなはち本証の全体なり」という言葉と、同じ響きをもっているように思われます。さとりを先へ、死のあとへと送らない。いまここの、この身のままで、仏の子として仏道を歩む。その自覚があるからこそ、「からだは仮のもの、本当の自分は別にある」という声に、耳を貸す必要はないのです。
「狂人のしたのひびき」という言い方は、たいへん強い言葉です。けれども、ここで禅師が「みみにふるることなかれ」と言われているのは、「外道の見」を語る声、その言葉の響きであることに注意したいと思います。その声は、生死を嘆く人の心に、やさしく、たのもしく響くかもしれません。だからこそ、仏子としての自覚をもって、そこに心を奪われないように、と戒めておられるのでしょう。
身心一如と坐禅#
ここで、この段の教えを、坐禅と日々の修行に引き寄せて、もう少し考えてみたいと思います。
問う人の説の要は、「知ること」でした。心性が常住であるという道理を知れば、それで生死を離れる。坐ることは要らない。この考え方の奥には、からだは仮のもの、大切なのは心の中の理解だ、という見方があります。からだを軽んじる見方と、坐禅を軽んじる見方とは、ここで一つにつながっています。
禅師が「身心一如」と言われるとき、その言葉は、坐禅というあり方と切り離せないように思われます。坐禅は、心だけで行うものではありません。「坐禅儀」の巻には、坐る場所をととのえ、足を組み、手を組み、「正身端坐すべし」、からだをまっすぐにして端正に坐り、耳と肩、鼻と臍とを対するようにし、舌や唇、目や息にいたるまでととのえることが、こまやかに示されています。そして、「かくのことく身心をととのへて」と言われます。からだをととのえることと、心をととのえることとが、別々のこととしてではなく、「身心をととのへて」と、ひとつづきに言われているのです。
坐禅は、からだを置き去りにして、心の奥にある何かを探しにゆくことではありません。からだをととのえ、姿勢を正し、呼吸をととのえる。そのからだの姿そのものが、そのまま坐禅である、と受けとめることができるでしょう。からだは、心が一時宿っている「仮のすがた」なのではなく、この身をあげて坐る、その身がそのまま仏道の場である、と。弁道話の前半で、禅師が「宗門の正伝」として「ただし打坐して身心脱落することをえよ」(本書第二回)と、「身心」の語を用いて坐禅を示しておられたことも、ここで思い起こしてよいでしょう。
また、問う人は、「いたづらに閑坐して一生をすぐさん」と言いました。坐ることを、何も生み出さない、むだな時間と見たのです。けれども、前回の段で見たように、禅師にとって坐禅は、何かを得るための手段ではありませんでした。「修のほかに証をまつおもひなかれ」。坐禅は、その先に何かを待つものではない。そうであれば、坐禅を「何も得られないむだな時間」と見る問う人の見方は、坐禅を手段として測ったうえでの見方だと言えるでしょう。そして、「知ること」で得られるものは、【5】で禅師が示されたように、知る心とともに生滅してしまうものでした。
日々の暮らしに目を移してみましょう。私たちは、からだのことを、心のための道具のように扱ってしまうことがあります。疲れを無視して働きつづけたり、食事を急いですませたり、からだの声を聞かずに、頭の中の予定や考えばかりを追いかけたり。そうしたとき、私たちはどこかで、「本当の自分は頭の中にいて、からだはそれを運ぶ乗り物だ」と思っているのかもしれません。
身心一如の教えは、そうした暮らし方を、静かに問い直します。顔を洗う、食事をいただく、掃除をする、歩く。そのどれもが、からだで行うことであり、同時に、心で行うことです。からだと心とを分けずに、その一つひとつの行いに、身も心も置いて行う。そのとき、日々の行いは、心がからだを使って行う作業ではなく、身心をあげての修行となりうる。この段の本文が直接語っているのは身心の見方のことですが、そのように受けとめることもできるように思います。
むすびに#
この段で読んだ問答を、あらためて振り返ってみましょう。
問10で問う人は、からだは滅びても心の本性は滅びない、そのことを知れば生死を離れられる、坐ってむなしく一生を過ごすより急いでこの道理を知るべきだ、という説を持ち出しました(【1】)。禅師はこれを「またく仏法にあらず、先尼外道が見なり」と退け、その見が、身の内の霊知が身の滅するとき抜け出して他所に生まれる、とするものであることを示されました(【2】【3】)。この見を仏法とするのは瓦礫を宝と思うより愚かであり、慧忠国師も深く戒めた。生死の本因を起こしながら生死を離れたと思うのは、哀れむべきことである(【4】)。仏法では、もとより身心一如・性相不二と説く。生死はそのまま涅槃であり、生死の外に涅槃はない。心は常住だと理解したとしても、その理解する心そのものが生滅している(【5】)。身と心とが一如であるときと一如でないときがあるならば、仏説は虚妄となる。生死を除くべきものと思うのは、仏法を厭う罪となる(【6】)。仏法で言う心性とは、一大法界をこめて性相を分けず、生滅を言わない、平等の一心である(【7】)。すでに仏子である。外道の見に耳を貸してはならない(【8】)。
この段で退けられているのは、からだと心、生死と涅槃とを「分ける」見方でした。からだは仮のもの、心こそ本物。生死は逃れるべきもの、涅槃はその外にある安らぎ。仏と等しい徳は死のあとに具わる。そうした分け方が、ここではすべて退けられています。そして、それと入れ替わりに示されたのは、「身心一如」「生死はすなはち涅槃なり」「すでに仏子なり」という、この身このままを離れない仏法のあり方でした。
はじめにお断りしたように、この段は、死後に何があるのか、ないのかを、それとして論じた箇所ではありません。禅師が退けておられるのは、からだを離れて変わらずに残る心の実体を立て、それを知ることで生死から抜け出そうとする考え方です。死を前にした不安や、亡き人を思う気持ちに、この段がどのように答えるのかは、読む人それぞれが、本文に即して、ゆっくりと味わっていくべきことでしょう。そのうえで一つ言えるのは、この段が、生死を嘆き、そこから逃げ出そうとする心に対して、「生死の外」ではなく「生死のただなか」に仏法がある、と示しているということです。
からだは滅びても、心だけは残ってほしい。その願いは、人として自然な、切実な願いです。禅師は、その願いにすがるかわりに、この身、この心、この生死を、厭うことなく、(「生死」の巻の言葉を借りれば)そのまま仏の御いのちとして受けとめる道を示された。その道は、特別な道理を知ることによってではなく、この身をととのえ、この身をあげて坐る、日々の坐禅と修行の中で歩まれてゆくものだと、弁道話は語っているように思われます。
次の問11では、坐禅をもっぱらにする人は、必ず戒律を厳しく清らかに守るべきなのか、と問われます(本書第七回)。禅師がどう答えられるかを、次の段で読んでいきます。
読みの分かれるところ#
この回の範囲にも、読み方が一つに定まらない言い回しがいくつもあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。
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「あるがいはく、……」の引用の範囲【1】
「生死をなげくことなかれ」から「なにのまつところかあらん」までを、まとめて「ある人」の説と読むことができます。一方、「ある人」の言葉は初めの二文だけで、「そのむねたらく」以下は問う人自身の説明と読むこともでき、宗務庁版英訳の注はこの可能性を述べています。どちらに読んでも、ここに述べられているのが禅師の説ではないことに変わりはありません。 -
「心性」の二つの用法【1】【7】
【1】で問う人が言う「心性」は、からだを離れて残る不滅の心の本体です。【7】で禅師が言う「心性」は、身と心、性と相、生死と涅槃を分けず、一大法界を含むものです。同じ語を別の意味で用いていると読むことも、禅師が問う人の語を取りあげ直して、正しい意味を示していると読むこともできます。宗務庁版英訳は、どちらも同じ語で訳しています。 -
「いたづらに閑坐して一生をすぐさん」【1】
「閑坐」を、禅師が勧める坐禅の修行を指して「むだに坐っている」と揶揄する言葉と取ることも、一般に何もせず静かに坐って過ごすことと取ることもできます。どちらに取っても、この説が「知ること」を重んじ、坐ることをむだとする点は変わりません。 -
「心常相滅」の「相」【4】
「相」を、からだのことと取れば、【5】の「身滅心常」(身は滅し、心は常住)と同じ趣旨の語になります。性に対する相、つまり現れ・すがた一般と取る読みもあり、宗務庁版英訳はこちらに近い形で訳しています。【5】で「身心一如」と「性相不二」が並べられていることから、二つの読みは重なりあうとも言えます。 -
「生死の本因をおこして、生死をはなれたりとおもはん」【4】
この見を立てること自体が生死の根本の原因を起こしているのに、生死を離れたと思っている、と読むことができます。また、生死の原因(迷いや煩悩)はそのままにして、道理を知っただけで生死を離れたと思っている、と読むこともできます。宗務庁版英訳は前者に近い形で訳しています。 -
【5】の語句――「あへてたがふべからず」「領解智覚」「はかなき」
「あへてたがふべからず」は、インドでも中国でも少しも食い違うことはない、という事実の叙述とも、この説に決して背いてはならない、という戒めとも取れます。「領解智覚」の「智覚」は、直前の「仏智」を受けて仏の智慧として覚ったつもりの心と取ることも、単に知り覚る心と取ることもできます。「はかなき」も、取るに足りない・愚かな、と取るか、あてにならない・むなしい、と取るかで幅があり、宗務庁版英訳は前者の方向で訳しています。 -
「このもろもろの法門、みな平等一心なり。あへて異違なしと談ずる、これすなはち仏家の心性をしれる様子なり」【7】
「法門」は、前文の「一切諸法・万象森羅」を法の門と言いかえたものとも、仏の説くさまざまな教えとも取れます。「様子」は「ありさま」とも「しるし・証拠」とも取れ、宗務庁版英訳は「しるし」の意に訳しています。「あへて異違なしと談ずる」を前の文に続けて読むか、「異違なしと説くこと、それが……」と次に掛けて読むかにも幅があります。 -
「すでに仏子なり」【8】
主語を問う人と取れば、「あなたはもう仏の子なのだから」という戒めの呼びかけになります。「われわれ」と取れば、禅師ご自身も含め、仏の教えを受け継ぐ者すべてに向けた言葉になり、宗務庁版英訳はこちらの形で訳しています。
参考#
- 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第一「辦道話」
- 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. VII(Sōtō Zen Text Project、2023)
- 語句の出典・典拠(「先尼外道」「慧忠国師」「性海」「心性大総相の法門」など)と、「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注によります。