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摩訶般若波羅蜜(二)大般若経の三つの引用#

『心経』の拈提に続いて、『大般若経』から引かれた三つの経文と、それぞれに添えられた道元禅師の短い言葉を読む回です。

原文#

経文一 一苾蒭の敬礼#

【1】釈迦牟尼如来會中、有一苾蒭。竊作是念、我應敬礼甚深般若波羅蜜多。此中雖無諸法生滅、而有戒蘊・定蘊・慧蘊・解脱蘊・知見蘊施設可得、亦有預流果・一来果・不還果・阿羅漢果施設可得、亦有獨覺菩提施設可得、亦有無上正等菩提施設可得、亦有佛法僧宝施設可得、亦有転妙法輪・度有情類施設可得。佛知其念、告苾蒭言、如是如是。甚深般若波羅蜜、微妙難測。

拈提一#

【2】而今の一苾蒭の竊作是念は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅の般若、これ敬礼なり、この正當敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり。いはゆる戒・定・慧、乃至度有情類等なり、これを無といふ。無の施設、かくのごとく可得なり。これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり。

経文二 虚空のごとく学す#

【3】天帝釈、問具壽善現言、大徳、若菩薩摩訶薩、欲学甚深般若波羅蜜多、當如何学。善現答言、憍尸迦、若菩薩摩訶薩、欲学甚深般若波羅蜜多、當如虚空学。

拈提二#

【4】しかあれば、学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。

経文三 般若の守護#

【5】天帝釈、復白仏言、世尊、若善男子・善女人等、於此所説甚深般若波羅蜜多、受持読誦、如理思惟、為他演説、我當云何而為守護、唯願世尊垂哀示教。爾時具壽善現、謂天帝釈言、憍尸迦、汝見有法可守護不。天帝釈言、不也。大徳、我不見有法是可守護。善現言、憍尸迦、若善男子・善女人等、作如是説、甚深般若波羅蜜多、即為守護。若善男子善女人等、作如所説、甚深般若波羅蜜多、常不遠離。当知、一切人非人、伺求其便、欲為損害、終不能得。憍尸迦、若欲守護、作如所説、甚深般若波羅蜜多、諸菩薩者、無異為欲守護虚空。

拈提三#

【6】しるべし、受持・読誦・如理思惟、すなはち守護般若なり。欲守護は、受持・読誦等なり。

現代語訳#

段落番号【1】〜【6】は原文の段落番号と対応します。【1】【3】【5】は『大般若経』の引用(漢文)、【2】【4】【6】はそれを受けた道元禅師の拈提(和文)です。(経文一)などの小見出しは読みやすさのために付けたもので、原文にはありません。経文の段は、まず書き下しを示し、次に訳をつけました。書き下しは訳者による一つの読みであり、底本(本山版)の訓点・訓読ではありません。書き下しの字体は原文の字を用い、送り仮名は歴史的仮名遣いによりました。拈提の段は和文なので、訳のみを示しました。( )内は、原文にない語を補ったもの、または直前の語の言い換えです。仏教語・固有名詞は訳さずに残し、必要に応じて段落の後に「語注」として説明しました。拈提で禅師が経文の句を取り上げて読みかえている箇所は、訳では経文の句を「 」で示し、語注で経文の通常の読みと禅師の読みを並べました。

【1】(経文一)

書き下し:釈迦牟尼如来の會中に、一りの苾蒭有り。竊かに是の念を作さく、「我れ應に甚深般若波羅蜜多を敬礼すべし。此の中に諸法の生滅無しと雖も、而も戒蘊・定蘊・慧蘊・解脱蘊・知見蘊の施設して得べき有り、亦た預流果・一来果・不還果・阿羅漢果の施設して得べき有り、亦た獨覺菩提の施設して得べき有り、亦た無上正等菩提の施設して得べき有り、亦た佛法僧宝の施設して得べき有り、亦た妙法輪を転じ有情類を度するの施設して得べき有り」と。佛、其の念を知ろしめして、苾蒭に告げて言はく、「是の如し、是の如し。甚深般若波羅蜜は、微妙にして測り難し」と。

訳:釈迦牟尼如来の會中(説法の集まり)に、一人の苾蒭がいた。(その苾蒭は)ひそかにこう念じた。「わたしは甚深(はなはだ深い)般若波羅蜜多を敬礼しよう。この(般若波羅蜜多の)中には、諸法の生滅(あらゆるものが生じたり滅したりすること)は無いけれども、それでも、戒蘊・定蘊・慧蘊・解脱蘊・知見蘊が(ある、と)施設する(仮に立てて説く)ことができ、また預流果・一来果・不還果・阿羅漢果が(ある、と)施設することができ、また独覚菩提が(ある、と)施設することができ、また無上正等菩提が(ある、と)施設することができ、また仏法僧宝が(ある、と)施設することができ、また転妙法輪(妙法の輪を転ずること)・度有情類(生きとし生けるものを度すること)が(ある、と)施設することができる。」仏はその念いを知って、苾蒭に告げて言われた。「そのとおりである、そのとおりである。甚深般若波羅蜜は、微妙であって測りがたい。」

語注

  • 出典:この段全体が『大般若波羅蜜多経』(『大般若経』)からの引用(大正蔵 T.220.6:480b17-26。宗務庁版英訳による)。
  • 會中:仏の説法の座に集まった人々の中。
  • 苾蒭:比丘。出家して具足戒を受けた男性の修行僧(梵語 bhikṣu の音写)。
  • 竊作是念:「竊かに是の念を作す」。ひそかに(心の中で)こう思った、の意。経文では、苾蒭の心の中の思いを導く句で、思いの内容は「我應敬礼……施設可得」まで。
  • 敬礼:うやまって礼拝すること。経文では、敬礼する対象は「甚深般若波羅蜜多」である(【2】で禅師はこれを読みかえる)。
  • 甚深般若波羅蜜多:はなはだ深い般若波羅蜜多。般若波羅蜜多(般若波羅蜜)は、智慧の完成、彼岸に到る智慧。経文の中で「般若波羅蜜多」「般若波羅蜜」の両方の形が用いられている(仏の答えでは「般若波羅蜜」)。
  • 此中:「この中に」。般若波羅蜜多の中に、の意に取った。漠然と「ここにおいて・この場合に」と取ることもできる。
  • 諸法:あらゆるもの、あらゆる事象。
  • 生滅:生じることと滅すること。
  • 施設:言葉によって仮に立てること、仮に名づけて説くこと。宗務庁版英訳は「仮に立てる」の意の語で訳し、注で「(究極的には諸法は無いが)慣例的に立てられる」の意とする。
  • 施設可得:経文では「戒蘊……の施設可得有り」と、列挙された項目それぞれの述語として繰り返される。「施設して得べし」(仮に立てて認めることができる)の意に取った。「有」を本動詞として「戒蘊……の施設の、得べき(もの)が有る」と取る構文も考えられ、書き下し「施設して得べき有り」はその間をとった形にした。
  • 戒蘊・定蘊・慧蘊・解脱蘊・知見蘊:五分法身(仏・阿羅漢など、さとった者がそなえる五つの功徳のまとまり)。「蘊」は集まり・まとまりの意。戒=戒をたもつこと、定=禅定、慧=智慧、解脱=煩悩から解き放たれていること、(解脱)知見=解脱したことをはっきり知ること。宗務庁版英訳の注は、さとった者に帰せられる「無漏の五蘊」で、仏の「五分法身」ともされるとする。第五は、宗務庁版英訳の日本語本文では「解脱知見蘊」とあるが、本山版は「知見蘊」と書く。訳は本山版の字のままとした。
  • 預流果・一来果・不還果・阿羅漢果:四果。声聞(仏の教えを聞いてさとりを目ざす修行者)が涅槃に至る道の四つの段階(宗務庁版英訳による)。預流=聖者の流れに初めて入った位、一来=もう一度だけこの世に生まれてさとる位、不還=もはやこの世(欲界)に還ってこない位、阿羅漢=修行を完成し、供養を受けるにふさわしい聖者の位。
  • 獨覺菩提:独覚のさとり。独覚(縁覚、梵語 pratyekabuddha)は、師によらず独りでさとる者(宗務庁版英訳による)。菩提はさとり。
  • 無上正等菩提:この上なく正しく完全なさとり。仏のさとり(宗務庁版英訳による)で、阿耨多羅三藐三菩提(本巻第一回)と同じ。
  • 佛法僧宝:三宝。仏と、仏の教え(法)と、教えを行ずる人々の集まり(僧)の三つの宝(宗務庁版英訳による)。
  • 転妙法輪:妙法の輪を転ずること。仏が教えを説くことを、輪(法輪)を転がすことにたとえた語。
  • 度有情類:有情の類を度すること。有情は、心をもつ生きもの、衆生。「度す」は、迷いの此岸から悟りの彼岸へ渡す、救う、の意。
  • 如是如是:「是の如し、是の如し」。そのとおりである、と相手の言葉を認めて重ねて言う語。
  • 微妙難測:「微妙にして測り難し」。微妙は、言いあらわしがたいほどすぐれて奥深いこと。

【2】(拈提一)而今(いま、ここ)の一人の苾蒭の「竊作是念」(ひそかにこう念じたこと)は、――諸法を敬礼するところにおいて、「雖無生滅」(生滅は無いけれども)の般若、これが敬礼である。まさにこの敬礼している時に、ちなみに(それにつれて)「施設可得」(仮に立てて得ることができる)の般若が現成している(現れ出て、成りたっている)。いわゆる戒・定・慧、乃至(から)度有情類など(まで)である。これを「無」という。「無」の施設(無という仮の立て方)は、このように可得(得ることができるもの)である。これが甚深微妙難測(はなはだ深く、微妙で、測りがたい)の般若波羅蜜である。

語注

  • 全体:この段は、【1】の経文の語句を組みかえて読む(宗務庁版英訳による)。経文の句がそのまま引かれる箇所(竊作是念・雖無生滅・施設可得・甚深・微妙難測)は、訳では「 」で示した。以下に経文の通常の読みとの違いを挙げる。
  • 而今の一苾蒭:「而今」は、いま、いまここ。経文の「一苾蒭」を、いまここにいる一人の苾蒭として取り上げる言い方と取った。「而今の」を、単に「(いま引いた)この」の意に取ることもでき、宗務庁版英訳はこの方向で訳す(→読みの分かれるところ)。
  • 竊作是念は:
    • 経文:「竊かに是の念を作す」。苾蒭が心の中でこう思った、という動作を述べる句で、その後に思いの内容が続く。
    • 禅師:「一苾蒭の竊作是念は、……」と、この句をひとまとまりの語として「は」で受け、文の主題にすえる。訳は「竊作是念は――」とし、この主題がどこで受けられるか(「般若」か「敬礼なり」か)は決めずにおいた(→読みの分かれるところ)。
    • 宗務庁版英訳の日本語本文ではこの句を「竊作念は」とするが、本山版は経文と同じく「竊作是念は」と書く。訳は本山版のままとした。
  • 諸法を敬礼するところに:
    • 経文:苾蒭が敬礼しようとするのは「甚深般若波羅蜜多」で、「諸法」は(般若の中に)その生滅が「無い」とされるものである。
    • 禅師:敬礼の対象を「諸法」に置きかえている(宗務庁版英訳による)。
  • 雖無生滅の般若:
    • 経文:「此の中に諸法の生滅無しと雖も」。「無」は諸法の生滅について言われ、「雖も」は後の「而も……施設可得有り」へと続く譲歩の句である。
    • 禅師:「雖無生滅」の四字を切り出し、「の般若」と、般若を形容する語にしている。生滅が無いのは、諸法ではなく般若のほうになる(宗務庁版英訳による)。さらにその般若が「これ敬礼なり」とされ、敬礼の対象であった般若が、敬礼そのものと言われる。
  • 正當敬礼時:まさに敬礼している、ちょうどその時。「正當……時」は、まさに……の時、の意。
  • ちなみに:「それにつれて」「それに因って」の意に取った。「ついでに・あわせて」、あるいは「(縁によって)その機縁のうちに」と取ることもできる。
  • 施設可得の般若現成せり:
    • 経文:「施設可得」は、戒蘊以下の列挙のそれぞれについて「(あると)仮に立てて得ることができる」と言う述語である。
    • 禅師:「施設可得」を「の般若」と、般若を形容する語にし、その般若が敬礼の時に「現成せり」と言う。宗務庁版英訳は「施設可得の般若」を「『施設可得』という般若」とし、注で「施設され得る般若」とも取れるとする。
  • いはゆる戒・定・慧、乃至度有情類等なり:経文の列挙(戒蘊……度有情類)を、最初の三つ(戒・定・慧)と最後(度有情類)で示し、間を「乃至」(……から……まで)で略したもの。経文の「戒蘊・定蘊・慧蘊」の「蘊」は省かれている。
  • これを無といふ:
    • 経文:「無」は「諸法の生滅無し」の「無」で、列挙された戒蘊以下は、逆に「有り」(施設可得有り)とされるものである。
    • 禅師:「有り」とされた戒・定・慧から度有情類までを、「無」と呼ぶ。宗務庁版英訳の注は、苾蒭が戒蘊から度有情類までの列挙を「生滅する法は無い」と性格づけている、の意に取る(→読みの分かれるところ)。
  • 無の施設、かくのごとく可得なり:
    • 経文:「施設可得」は一続きの述語で、施設されるのは戒蘊以下の項目である。
    • 禅師:「施設」と「可得」を二つに分け、「無の施設」を主語、「可得なり」を述語としている。施設される(仮に立てられる)のが「無」になる(宗務庁版英訳による)(→読みの分かれるところ)。
  • これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり:経文末の仏の言葉「甚深般若波羅蜜、微妙難測」を言いかえたもの(宗務庁版英訳による)。経文では仏が苾蒭の念いを「如是如是」と認めた後の言葉であるが、ここでは、敬礼・施設可得・無の施設可得という上の全体を「これ」で受ける。

【3】(経文二)

書き下し:天帝釈、具壽善現に問ひて言はく、「大徳、若し菩薩摩訶薩、甚深般若波羅蜜多を学せんと欲せば、當に如何が学すべき」と。善現答へて言はく、「憍尸迦、若し菩薩摩訶薩、甚深般若波羅蜜多を学せんと欲せば、當に虚空の如く学すべし」と。

訳:天帝釈が具寿善現に問うて言った。「大徳よ、もし菩薩摩訶薩が甚深般若波羅蜜多を学ぼうとするならば、どのように学ぶべきでしょうか。」善現は答えて言った。「憍尸迦よ、もし菩薩摩訶薩が甚深般若波羅蜜多を学ぼうとするならば、虚空のように学ぶべきである。」

語注

  • 出典:引き続き『大般若経』からの引用(大正蔵 T.220.6:480b28-c2。宗務庁版英訳による)。
  • 天帝釈:帝釈天。インドの神インドラ(宗務庁版英訳による)。仏法を守護する神とされる。
  • 憍尸迦:天帝釈への呼びかけの名(宗務庁版英訳による)。
  • 具壽善現:「具寿」は、長老の比丘に対する敬称。「善現」は、釈尊の弟子スブーティ(須菩提)の訳名(宗務庁版英訳による)。
  • 大徳:徳の高い僧への呼びかけ。
  • 菩薩摩訶薩:菩薩の尊称。「摩訶薩」は「大いなる衆生」の意。
  • 学:学ぶこと。訳は「学ぶ」としたが、修め行ずることも含む語である。
  • 當如虚空学:「當に虚空の如く学すべし」。虚空は、何もさえぎるもののない、果てのない空間。「虚空のように学ぶ」が、般若を虚空のようなものとして学ぶことを言うのか、学ぶ者が虚空のように(とらわれなく)学ぶことを言うのかは、経文の字面からは決まらない。宗務庁版英訳は前者に近く訳す(→読みの分かれるところ)。

【4】(拈提二)そうであるから、学般若(般若を学ぶこと)がそのまま虚空であり、虚空は(そのまま)学般若である。

語注

  • 経文の「如」の読みかえ:
    • 経文:「當に虚空の如く学すべし」。「如」(ように)によって、虚空をたとえとして持ち出す(何を虚空にたとえるのかは→読みの分かれるところ)。
    • 禅師:「学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり」。「如」を用いず、学般若と虚空とを「これ……なり」「……は……なり」で直接に結び、さらに順序を入れかえて重ねて言う。
  • 学般若:般若を学ぶこと。経文の「欲学甚深般若波羅蜜多」(甚深般若波羅蜜多を学ばんと欲す)から取った語と見られる。「般若を学ぶ」という行いとも、「学ぶことである般若」とも取りうる(→読みの分かれるところ)。
  • これ:「学般若これ虚空なり」の「これ」は、主語を受けなおして「……こそが」「……がそのまま」と述語につなぐ語と取った(本巻第一回の「照見、これ般若なり」と同じ形)。

【5】(経文三)

書き下し:天帝釈、復た仏に白して言さく、「世尊、若し善男子・善女人等、此の所説の甚深般若波羅蜜多に於いて、受持し読誦し、理の如く思惟し、他の為に演説せば、我れ當に云何にしてか守護を為すべき。唯だ願はくは世尊、哀を垂れて示教したまへ」と。爾の時、具壽善現、天帝釈に謂ひて言はく、「憍尸迦、汝、法の守護すべき有るを見るや不や」と。天帝釈言さく、「不なり。大徳、我れ法の是れ守護すべき有るを見ず」と。善現言はく、「憍尸迦、若し善男子・善女人等、是の如き説を作さば、甚深般若波羅蜜多、即ち守護と為る。若し善男子善女人等、所説の如く作さば、甚深般若波羅蜜多、常に遠離せず。當に知るべし、一切の人非人、其の便を伺ひ求めて、損害を為さんと欲すとも、終に得ること能はず。憍尸迦、若し守護せんと欲せば、所説の如く作せ。甚深般若波羅蜜多と諸菩薩とは、虚空を守護せんと欲するに異なること無し」と。

訳:天帝釈がまた仏に申し上げた。「世尊よ、もし善男子・善女人などが、ここに説かれた甚深般若波羅蜜多を受持し、読誦し、如理思惟し(道理のとおりに思いめぐらし)、他の人のために演説する(説きひろめる)ならば、わたしは、どのようにして守護したらよいでしょうか。どうか世尊よ、あわれみをかけて、お示しください。」

その時、具寿善現が天帝釈に言った。「憍尸迦よ、あなたは、守護することのできる(守護すべき)法が有ると見るか、どうか。」天帝釈は言った。「いいえ。大徳よ、わたしは、守護することのできる法が有るとは見ません。」

善現は言った。「憍尸迦よ、もし善男子・善女人などが、このように説く(このような説をなす)ならば、甚深般若波羅蜜多が、そのまま守護となる。もし善男子・善女人などが、説かれたとおりに行うならば、甚深般若波羅蜜多は常に(その人から)遠く離れない。知るがよい。一切の人非人が、そのすき(便)をうかがい求めて損害を加えようとしても、ついにできない。憍尸迦よ、もし守護しようと欲するなら、説かれたとおりに行いなさい。甚深般若波羅蜜多と諸菩薩と(を守護しようと欲するの)は、虚空を守護しようと欲するのと異なることがない。」

語注

  • 出典:引き続き『大般若経』からの引用(大正蔵 T.220.6:480c2-15。宗務庁版英訳による)。
  • 白す:(目上の人に)申し上げる。
  • 世尊:仏の尊称。世に尊ばれる者。
  • 善男子・善女人:仏法を信じ行ずる男性・女性。
  • 此所説:「此の所説の」。ここに説かれた、この(経に)説かれている、の意に取った。
  • 受持・読誦・如理思惟・為他演説:経を身に受けてたもつこと(受持)、読み唱えること(読誦)、道理のとおりに思いめぐらすこと(如理思惟)、他の人のために説きひろめること(為他演説)。経典を信奉する行いとして挙げられる。【6】で禅師が取り上げる。
  • 守護:まもること。天帝釈は仏法を守護する神とされ(【3】語注)、ここではその天帝釈が、守護のしかたを尋ねている。
  • 我當云何而為守護:天帝釈が守護しようとする対象は、字面では示されていない。般若波羅蜜多を受持・読誦などする善男子・善女人とも、般若波羅蜜多そのものとも取れる。宗務庁版英訳は後者に取る。訳は対象を補わなかった。
  • 示教:示し教えること。
  • 汝見有法可守護不:「汝、法の守護すべき有るを見るや不や」。「不」は問いの語(……か、どうか)。答えの「不也」は「いいえ」。
  • 作如是説:「是の如き説を作す」。このように説く、このような言い方をする、の意に取った。何を「是の如く」説くのか(直前の「守護すべき法は見ない」という天帝釈の言葉か、受持・読誦などの行いか)は、字面からは決まらない(→読みの分かれるところ)。
  • 即為守護:「即ち守護と為る」。般若波羅蜜多そのものが(その人の)守護となる、の意に取った。宗務庁版英訳も同様に取る。
  • 作如所説:「所説の如く作す」。説かれたとおりに行う、の意に取った。宗務庁版英訳はここも「このように語る」の意に訳す(→読みの分かれるところ)。
  • 常不遠離:「常に遠離せず」。常に遠く離れない。主語を「甚深般若波羅蜜多」に取り、般若がその人から離れない、とした。善男子・善女人が般若から離れない、とも取れる。
  • 人非人:人と、人ならざるもの(鬼神など)。「一切人非人」で、あらゆる人や人ならざるもの。宗務庁版英訳の日本語本文では「一切人非人等、」とあるが、本山版は「等」の字がない。訳は本山版のままとした。
  • 伺求其便:すき(便=つけいる機会)をうかがい求めること。「其」が指すのは、善男子・善女人とも、般若波羅蜜多とも取れる。
  • 最後の一文「憍尸迦、若欲守護、作如所説、甚深般若波羅蜜多、諸菩薩者、無異為欲守護虚空」:句の切り方が定まりにくい。訳は「若し守護せんと欲せば、所説の如く作せ」で一度切り、「甚深般若波羅蜜多と諸菩薩と」を後の「虚空を守護せんと欲するに異なること無し」の主題に取った。宗務庁版英訳も「所説の如く作せ」で切り、「諸菩薩にとって、甚深般若波羅蜜多を(守護しようと欲すること)は、虚空を守護しようと欲するのと異ならない」と取る。ほかの切り方も考えられる(→読みの分かれるところ)。
  • 諸菩薩者:菩薩たち。「者」は「……は」と主題を示す字とも、「……なる者」とも取れる(→読みの分かれるところ)。
  • 虚空:【3】の「當如虚空学」に続いて、ここでも虚空が持ち出される。虚空はさえぎるもののない空間で、それを損なうことも、まもることもできない、という含みと取れるが、訳には補わなかった。

【6】(拈提三)知るべきである。受持・読誦・如理思惟が、そのまま守護般若(般若を守護すること)である。「欲守護」(守護しようと欲すること)とは、受持・読誦などである。

語注

  • 受持・読誦・如理思惟、すなはち守護般若なり:
    • 経文:受持・読誦・如理思惟・為他演説は、善男子・善女人が般若波羅蜜多に対して行うことであり、守護は、天帝釈がそれをどう行えばよいかと尋ねた事柄(の答えとして「守護すべき法は見ない」「般若そのものが守護となる」と説かれた事柄)である。両者は経文では別の主体の別の事柄である。
    • 禅師:「すなはち」で両者を直接に結び、善男子・善女人の受持・読誦・如理思惟が、そのまま「守護般若」である、と言う。
    • 経文の四つの行いのうち、ここでは「為他演説」が挙げられていない。
  • 守護般若:「般若を守護する(こと)」と訳した。経文に「甚深般若波羅蜜多、即為守護」(般若そのものが守護となる)とあることから、「守護である般若」「般若による守護」と取ることもできる(→読みの分かれるところ)。
  • 欲守護は、受持・読誦等なり:
    • 経文:「欲守護」は、善現の言葉の終わりの「若欲守護」(もし守護しようと欲するなら)、「為欲守護虚空」(虚空を守護しようと欲する)に見える語。天帝釈が守護しようと欲することを言う。
    • 禅師:その「欲守護」(守護しようと欲すること)が、受持・読誦などである、と言う。経文の天帝釈の守護の願いと、善男子・善女人の受持・読誦とを一つにしている。「欲守護」を、守護しようと欲する者一般と取ることもできる。
  • 等:「受持・読誦等」の「等」は、前の文の如理思惟(および経文の為他演説)を含めて言うものと取った。

解説#

はじめに――経文を引き、それを読む#

前回は、この巻の冒頭の一段落を読みました。禅師は『般若心経』の句を組みかえるところから巻を始め、五蘊を「五枚の般若」と数え、十八界、四諦、六度、仏のさとり、三世、六大と、般若を一枚一枚数えあげて、最後に「よのつねにおこなはる」行・住・坐・臥を「四枚の般若」として結ばれました(本巻第一回)。私たちの身心も、見聞きするものも、毎日の立ち居ふるまいも、般若の外にあるのではない。前回は、そのような言葉として受けとめました。

今回読むのは、それに続く六つの段落です。ここで巻の運びは、少し形を変えます。前回の段落は、経の句を下敷きにしながらも、ほとんどが禅師ご自身の和文でした。今回は、まず経文そのものが漢文のまま長く引かれ、そのあとに禅師の短い言葉が添えられる、という形が三度くり返されます。

段 内容
【1】経文一 一人の苾蒭(比丘)が、甚深般若波羅蜜多を敬礼しようと念ずる
【2】拈提一 それを受けた禅師の言葉
【3】経文二 天帝釈が善現に、般若の学び方を問う
【4】拈提二 それを受けた禅師の言葉
【5】経文三 天帝釈が、般若を受持・読誦する人をどう守護するかを問う
【6】拈提三 それを受けた禅師の言葉

引かれている経は、宗務庁版英訳の解題・注によれば、いずれも玄奘の訳した『大般若波羅蜜多経』(『大般若経』)です。解題はこの経を六百巻に及ぶ大部の経として紹介し、この巻が『心経』の解釈から始まって、この『大般若経』からの引用へと進んでいく、と述べています。前回の『心経』は、多くの人に親しまれた短い経でした。今回は、その同じ般若波羅蜜を説く、はるかに大きな経の中から、三つの場面が取り出されているわけです。

経文を引いて、そのあとに禅師がそれを取りあげて示す言葉を、本書では「拈提」と呼んでおきます。今回の拈提は、どれもたいへん短いものです。【4】にいたっては、「しかあれば、学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり」(原文【4】)の一行だけです。けれども、その短い言葉の中で、禅師は経文をそのまま言いかえて説明しておられるのではありません。経文の語句を切り出し、つなぎかえ、経文がふつうに言っていることとは少し違う向きに読んでおられます。宗務庁版英訳の注は、【2】について、この一節全体が経の引用文の意味のまとまりを組みかえる試みである、という趣旨のことを述べています。また解題は、この巻の禅師の言葉のいくつかに、漢文の一節を新しく読む好み――のちに禅師の文体の特徴となっていくもの――がすでに見てとれる、とも記しています。

そこで今回は、読み方に一つの手順を立てておきたいと思います。各段で、まず経文が、ふつうに読めば何を言っているのかを確かめます。そのうえで、禅師の拈提が、経文のどの語句を取りあげ、それをどう読みかえているのかを見ます。現代語訳の語注では、この二つを「経文」「禅師」として並べておきました。解説でもその対比に沿って進みます。なお、解説の中で経文を「此の中に……と雖も」のように訓み下して示すところは、本書の現代語訳でつけた一つの読みであり、ほかの訓み方もありえます。

一つお断りしておきます。禅師の読みかえは、一つの意味に決めにくいところがたくさんあります。解説でもそれらの箇所では、読みの幅を残したまま、要点を述べるにとどめます。主なものは、末尾の「読みの分かれるところ」にまとめました。そのうえで、その読みかえを、坐禅や日々の修行、暮らしのなかでどう受けとめることができるかを、一つの受けとめ方として申し添えていきます。

一苾蒭の敬礼(【1】【2】)#

経文が語っていること#

最初の経文は、こう始まります。

「釈迦牟尼如来會中、有一苾蒭。竊作是念、我應敬礼甚深般若波羅蜜多」(原文【1】)。

釈尊の説法の座に、一人の苾蒭(比丘、出家の修行僧)がいた。その人が、ひそかに心の中で、「わたしは、甚深の般若波羅蜜多を敬礼しよう」と念じた、というのです。

苾蒭が心の中で念じたことは、さらに続きます。

「此中雖無諸法生滅、而有戒蘊・定蘊・慧蘊・解脱蘊・知見蘊施設可得」(原文【1】)。

この(般若波羅蜜多の)中には、諸法が生じたり滅したりすることは無い。けれども、それでも、戒蘊・定蘊・慧蘊・解脱蘊・知見蘊が(ある、と)仮に立てて説くことができる。そして苾蒭の念いは、このあと「亦有……施設可得」の形をくり返しながら、四果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)、独覚のさとり、無上正等菩提(仏のさとり)、仏法僧の三宝、そして転妙法輪(教えを説くこと)・度有情類(生きとし生けるものを救うこと)へと進んでいきます(原文【1】)。

挙げられているのは、戒・定・慧から始まる修行とさとりの徳、さとりへの段階、仏のさとり、三宝、そして教えを説き衆生を救うはたらきです。いわば仏道の全体が、ここに数えあげられています。

なお、五分法身の五つめを、本書の底本(本山版)は「知見蘊」と書いています。宗務庁版英訳の日本語本文では、ここは「解脱知見蘊」となっています。現代語訳ではこれを、解脱したことをはっきり知る徳として、本山版の字のまま扱いました。

経文の筋をまとめると、こうなるでしょう。般若波羅蜜多の中では、ものの生滅は無い。けれども、それで仏道のすべてが無くなってしまうのではなく、戒・定・慧から衆生を救うことまで、すべてを「ある」と仮に立てて説くことができる。そう念じた苾蒭に対して、仏はその念いを知って、「如是如是。甚深般若波羅蜜、微妙難測」(原文【1】)、そのとおりだ、そのとおりだ、甚深の般若波羅蜜は微妙で測りがたい、と認められた、という場面です。

ここで経文の言う「施設」は、言葉によって仮に立てること、という意味です。宗務庁版英訳はこれを「仮に立てる」という意味の語で訳し、注で、究極的には諸法は無いけれども、慣例的に立てられる、という意味あいに取っています。ただ、この「施設可得」という句の構文の取り方には、いくつかの可能性があります。現代語訳の書き下しは、そのあいだを取った形にしてあります。

禅師の拈提――経文の語句を組みかえる#

この経文を受けて、禅師は次のように言われます。

「而今の一苾蒭の竊作是念は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅の般若、これ敬礼なり、この正當敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり」(原文【2】)。

一読して、すぐには意味がとりにくい文です。けれども、よく見ると、ここに出てくる語句の多くは、経文の中の語句です。「竊作是念」「敬礼」「雖無」「生滅」「施設可得」。禅師は、経文の言葉を素材として、それを並べなおしておられるのです。

まず、文のはじめの「而今の一苾蒭」です。「而今」を、いま・ここの、と取れば、経文の中の昔の一人の比丘が、いまここにいる一人の修行者として取りあげられていることになります。一方で、「而今の」を、いま引いた(経文の)この、という指示の意味に取ることもできます(→読みの分かれるところ)。前回も見たように、「而今」は禅師が多く用いられる言葉ですから、前の読み方にひかれるところがありますが、ここでは決めずにおきます。

次に、「竊作是念は」です。経文では、「竊かに是の念を作す」は、苾蒭が心の中でこう思った、という動作を述べる句で、そのあとに思いの内容が続いていました。禅師はこれを「一苾蒭の竊作是念は」と、ひとまとまりの語として「は」で受け、文の主題にすえておられます。前回、「行深般若波羅蜜多時は」と、経の「時」に「は」をつけて主題にされたのと、よく似た言い方です。

ただ、この主題が、文のどこで受けとめられているのかは、決めにくいところです(→読みの分かれるところ)。苾蒭の念いがそのまま(生滅の無い)般若である、と読むこともできます。念いがそのまま「敬礼なり」である、と読むこともできます。宗務庁版英訳は、「竊作是念は、諸法を敬礼するところに」を一続きに、苾蒭が諸法を敬礼しようと念ずるところにおいて、と取り、そのうえで「雖無生滅の般若、これ敬礼なり」を主な文としています。どの読み方を取っても、苾蒭の心の中の一つの念いが、この拈提全体の出発点に置かれていることは変わりません。

敬礼の対象が「般若」から「諸法」へ#

この拈提で、まず目をとめておきたいのは、「諸法を敬礼するところに」という句です。

経文で、苾蒭が敬礼しようと念じたのは、「甚深般若波羅蜜多」でした。「諸法」は、その般若波羅蜜多の中では、生滅が「無い」とされるものでした。ところが禅師は、敬礼の対象を「諸法」に置きかえておられます。宗務庁版英訳の注でも、ここでは敬礼が、般若ではなく諸法に向けられている、と指摘されています。

これは、前回の段落と照らし合わせると、自然に見えてくる読みかえかもしれません。前回、禅師は五蘊も、十二入も、十八界も、四諦も、六度も、三世も、六大も、行・住・坐・臥も、それぞれ何枚かの般若として数えあげられました。諸法、あらゆるものの一つ一つが般若であるならば、諸法を敬礼することは、般若を敬礼することと別のことではない、と受けとめることができます。ただし、本文はそのつながりを明言していませんので、これは一つの受けとめ方として申しあげておきます。

「雖無生滅の般若、これ敬礼なり」#

続く「雖無生滅の般若、これ敬礼なり」で、読みかえはさらに進みます。

経文では、「此の中に諸法の生滅無しと雖も」と、生滅が無いのは「諸法」のことでした。そして「雖も」は、うしろの「而も……施設可得有り」へとつながる譲歩の句でした。禅師は、その中から「雖無生滅」の四字だけを切り出し、「の般若」と、般若を形容する言葉にしておられます。こうなると、生滅が無いのは、諸法ではなく般若のほうになります。宗務庁版英訳の注も、ここで生滅が無いとされているのは、諸法ではなく般若である、と述べています。

そして、その般若が「これ敬礼なり」と言われます。経文では、般若は苾蒭が敬礼する「対象」でした。それが禅師の言葉では、般若が「敬礼そのもの」だと言われている、と読むことができます(主題「竊作是念は」の受け方によっては、念いそのものが敬礼である、という読みも残ります。→読みの分かれるところ)。

前回、禅師が「照見、これ般若なり」(本巻第一回)と言われたことを思い出してください。経のふつうの読みでは、般若を行じて、その結果として照見が起こるのでした。禅師はそれを、照見そのものが般若である、と言いかえられました。今回も、同じ形の言いかえが見られる、と読むことができます。敬礼する者がいて、敬礼される般若が向こうにある、という分け方ではなく、敬礼することがそのまま般若である、と。

「雖無生滅の般若」という言い方そのものにも、幅があります(→読みの分かれるところ)。「雖無生滅」という句で言われている般若、と取ることもできますし、生滅は無いけれども(それでもある)般若、と、「雖も」の譲歩の響きを残して取ることもできます。

「この正當敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり」#

続いて、「この正當敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり」(原文【2】)。まさに敬礼しているその時に、「施設可得」の般若が現成している、と。

ここでも、経文の「施設可得」が切り出されています。経文では、「施設可得」は、戒蘊以下の項目それぞれについて、(あると)仮に立てて説くことができる、と言う述語でした。禅師はそれを、「の般若」と、やはり般若を形容する言葉にしておられます。

この「施設可得の般若」をどう取るかについては、宗務庁版英訳の注が二つの可能性を挙げています。一つは、「施設可得」という句で言われる般若、という取り方です。もう一つは、施設されうる般若、という取り方です。注はさらに、究極には諸法は無いけれども、諸法を(慣例として)立てることができる、と見てとる智慧が、諸法への敬礼のうちに現れる、という意味ではないか、と述べています。

また、「ちなみに」の一語も、それにつれて、それに因んで、と取るか、あわせて、と取るか、縁によってその機縁のうちに、と取るか、幅があります。

どの取り方をするにしても、ここで「正當敬礼時」、まさに敬礼しているその時、と言われていることは、心にとめておきたいと思います。般若は、敬礼を終えたあとで、その結果として得られるものとして語られていません。敬礼している、ちょうどその時に、般若が現成している、と言われています。前回の「行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」(本巻第一回)でも、般若を行ずる「時」がそのまま照見であると言われていました。どちらも、行いと般若とを、前後に分けない言い方だと受けとめることができます。

「これを無といふ」「無の施設、かくのごとく可得なり」#

拈提は、こう続きます。

「いはゆる戒・定・慧、乃至度有情類等なり、これを無といふ。無の施設、かくのごとく可得なり」(原文【2】)。

現成している「施設可得の般若」とは、いわゆる戒・定・慧から、度有情類まで、つまり経文で数えあげられた仏道の全体である、と。ここまではわかりやすいのですが、そのあとの「これを無といふ」で、読む人は立ちどまらされます(→読みの分かれるところ)。

経文では、「無」は「諸法の生滅無し」の「無」でした。そして戒蘊以下の項目は、むしろ「施設可得有り」と、「有り」の側に置かれていたものでした。ところが禅師は、その「有り」とされた戒・定・慧から度有情類までを、「無」と呼ばれます。

宗務庁版英訳の注は、ここを、苾蒭が戒蘊から度有情類までの列挙を「生滅する法は無い」という言葉で言いあらわしている、という意味に取っています。一方で、「これ」が指すのは列挙だけでなく、施設可得の般若、あるいは上の全体だと取ることもできますし、「無」を、「有」と「無」の対を超えたものとして名づけた語と受けとめる読み方もありえます。

さらに、「無の施設、かくのごとく可得なり」(→読みの分かれるところ)。経文では「施設可得」は一続きの述語で、施設されるのは戒蘊以下の項目でした。禅師はこれを「施設」と「可得」の二つに分け、「無の施設」を主語に、「可得なり」を述語にしておられます。宗務庁版英訳の注は、禅師がここで述語の「施設可得」を分け、経文の「無」を、このように「可得」である「施設」としている、と説明しています。経文では施設されるのは仏道の諸項目であったのが、ここでは、施設される(仮に立てられる)のが「無」そのものになっているのです。「無の施設」を、無を仮に立てること、と取るか、施設そのものが無である、と取るか、「かくのごとく」を、上に述べたように、と取るか、戒・定・慧……のように具体的に、と取るかにも、幅があります。

このあたりは、本当に読みの定まりにくいところです。そのうえで、一つの見方として、こう言えるかもしれません。経文では、「無」(生滅の無いこと)と、「有」(仏道の諸項目を立てうること)とは、「雖も……而も……」という形で、いわば対になって並べられていました。禅師の拈提では、その「無」と「有」が、敬礼の時に現成する般若の上で、一つに重ねられている、と読むことができそうです。仏道の諸項目は、無いと言われつつ、そのまま、戒・定・慧から衆生を救うことまで、具体的に得られるものとして立てられている。そう受けとめることもできるでしょう。

「これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり」#

拈提は、「これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり」(原文【2】)で結ばれます。宗務庁版英訳の注によれば、これは経文の最後の仏の言葉、「甚深般若波羅蜜、微妙難測」(原文【1】)を言いかえたものです。

経文では、この言葉は、苾蒭の念いを「如是如是」と認めた仏が、そのあとに述べたものでした。禅師の拈提では、その言葉が、上に述べてきたこと全体を「これ」で受ける形になっています。諸法を敬礼すること、その時に現成する般若、無の施設が可得であること。それらが、そのまま、甚深で、微妙で、測りがたい般若波羅蜜である、と。仏が「そのとおりだ」と認めた言葉を、禅師もまた、ご自身の言葉で受けなおしておられる、と読むこともできるでしょう。

坐禅と日々の礼拝のなかで#

さて、この一苾蒭の敬礼の段を、私たちの坐禅や日々の修行に引きよせて受けとめるとすれば、どのようなことが言えるでしょうか。以下は、本文がそう説いているということではなく、一つの受けとめ方として申し添えるものです。

経文の苾蒭は、心の中でひそかに、般若波羅蜜多を敬礼しようと念じました。私たちも、仏前で手を合わせ、頭を下げることがあります。そのとき私たちは、ふつう、礼拝する私がここにいて、礼拝される仏や教えが向こうにある、と思っています。経文の読み方も、その形でした。

禅師は、それを「雖無生滅の般若、これ敬礼なり」と言いかえられました。敬礼することがそのまま般若であり、敬礼しているまさにその時に、般若が現成している、と。そう受けとめるとき、手を合わせ頭を下げるという一つの動作が、何かを得るための手段としてではなく、それ自体として大切なものに見えてきます。

前回の最後に、禅師が行・住・坐・臥を「四枚の般若」と数えておられることを見ました。歩くときにはただ歩き、坐るときにはただ坐る、という日々の過ごし方を、それとして丁寧に行う、という受けとめ方を申しあげました。礼拝もまた、私たちの日々のふるまいの一つです。仏前で手を合わせるとき、その一つの礼を、からだまるごとで丁寧に行う。禅師が「正當敬礼時」、まさに敬礼しているその時、と言われた言葉は、そのような礼のあり方を思い起こさせてくれるように思います。

また、禅師が敬礼の対象を「諸法」とされたことも、暮らしのなかで味わうことができるかもしれません。仏前に向かうときだけでなく、日々出会う人やもの、手にする道具や食べ物、目に映る草や木。前回の段落の言葉を借りれば、それらもまた、一枚一枚の般若として数えられていました。そうしたものの一つ一つに向かうときの、敬う心のあり方として、この「諸法を敬礼する」という言葉を受けとめることもできるでしょう。

そして坐禅についても、同じことが言えそうです。弁道話で禅師は、「修証これ一等なり」と言われ、「修のほかに証をまつおもひなかれ」と教えておられました(『弁道話』第五回)。坐禅をして、その先に何か般若のようなものが得られるのを待つのではない。坐るまさにその時に、般若が現成している。今回の「正當敬礼時」の言葉は、弁道話のこの教えと、響き合うところがあるように思われます。

虚空のごとく学す(【3】【4】)#

経文:どのように学ぶべきか#

二つめの経文は、短い問答です。

「天帝釈、問具壽善現言、大徳、若菩薩摩訶薩、欲学甚深般若波羅蜜多、當如何学。善現答言、憍尸迦、若菩薩摩訶薩、欲学甚深般若波羅蜜多、當如虚空学」(原文【3】)。

宗務庁版英訳の注によれば、問う天帝釈はインドの神インドラで、ここでは憍尸迦とも呼びかけられています。答える具寿善現は、釈尊の弟子です。

天帝釈が尋ねます。菩薩が甚深の般若波羅蜜多を学ぼうとするなら、どのように学べばよいのか。善現が答えます。菩薩が甚深の般若波羅蜜多を学ぼうとするなら、「當に虚空の如く学すべし」、虚空のように学ぶべきである、と。

虚空とは、何もさえぎるもののない、果てのない空間のことです。この「虚空のように学ぶ」が何を言うのかは、経文の字面だけからは決まりません(→読みの分かれるところ)。般若を、虚空のようなものとして学ぶ、と取ることもできます。宗務庁版英訳はこの方向に近く訳しています。学ぶ者が、虚空のように、とらわれなく、さえぎりなく学ぶ、と取ることもできます。あるいは、虚空が何ものをも拒まずにあるように学ぶ、と取ることもできるでしょう。現代語訳では、どれにも寄せずに「虚空のように学ぶ」としておきました。

いずれにしても、経文の形ははっきりしています。学ぶ菩薩がいて、学ばれる般若があり、そこに「虚空のように」というたとえが添えられている。「如」、ように、の一字によって、虚空がたとえとして持ち出されているのです。

「如」を外す#

この経文を受けた禅師の拈提は、一行だけです。

「しかあれば、学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり」(原文【4】)。

そうであるから、般若を学ぶことがそのまま虚空であり、虚空は(そのまま)般若を学ぶことである、と。

経文と見くらべてみてください。経文では、「虚空の如く学す」と、「如」によって、学ぶことが虚空に「たとえ」られていました。禅師の言葉には、この「如」がありません。「学般若これ虚空なり」と、学ぶことと虚空とを、「これ……なり」で直接に結んでおられます。そしてさらに、「虚空は学般若なり」と、前後を入れかえて、もう一度言いなおしておられます。

たとえは、二つの別のものがあって、一方を他方にくらべて言うものです。学ぶこと(あるいは学ばれる般若)は、虚空「のよう」であるけれども、虚空そのものではない。経文のふつうの読みは、そういう形になります。禅師は、その「ように」を外して、学ぶことがそのまま虚空である、と言いきられます。前回から見てきた、禅師の「……は……なり」「これ……なり」と言いきる言い方が、ここでも、もっとも短い形で現れていると言えるでしょう。

ここで、「学般若」という語をどう取るかにも、幅があります(→読みの分かれるところ)。般若を学ぶこと、という行いとして取ることもできますし(現代語訳はこの取り方で、宗務庁版英訳もこの方向です)、学ぶことである般若、学としての般若、と取ることもできます。また、前の句は「学般若これ虚空なり」と「これ」を用い、後の句は「虚空は学般若なり」と「は」を用いています。この言い分けに意味の違いを見るかどうか、前後を入れかえて重ねて言うことにどのような意味を見るかも、読む人に委ねられているところです。

学ぶことが、そのまま虚空であるということ#

それでも、禅師が「如」を外されたことの重みは、受けとめておきたいと思います。

経文を、学ぶ者が虚空のように学ぶ、と読むなら、虚空は、学び方の手本ということになります。手本は、それを目ざして近づいていくものです。虚空のようにとらわれなく学ぼう、と心がけ、少しずつそれに近づいていく。そういう学び方を思い描くことができます。

ところが禅師の言葉では、学ぶことが、そのまま虚空です。虚空のようになろうとして学ぶのではなく、般若を学んでいる、そのことが、すでに虚空である。そして、虚空のほうもまた、そのまま般若を学ぶことである、と言われます。虚空は、学ぶ者の外にあって学び方の手本になるものではなく、学ぶことと一つのものとして言われている、と読むことができます。

この受けとめ方は、【2】の「雖無生滅の般若、これ敬礼なり」とも通じるところがあるように思われます。【2】では、敬礼の対象であった般若が、敬礼そのものと言われました。【4】では、たとえとして持ち出されていた虚空が、学ぶことそのものと言われています。どちらも、経文の中で「向こう側」に置かれていたものが、行いそのものの上に重ねられています。

坐禅と、学ぶこと#

「学ぶ」というと、私たちは、本を読んだり、話を聞いたりして、知識をたくわえていくことを思い浮かべがちです。けれども、現代語訳の語注でも記したように、「学」は、学んで知ることだけでなく、修め行ずることも含む言葉です。

ここで、坐禅をしている私たちの身に引きよせて、一つの受けとめ方を申し添えておきます。坐禅をしていると、さまざまな思いが浮かんでは消えていきます。私たちはつい、その思いを追いかけたり、払いのけようとしたりします。また、坐禅を、何かをつかむため、何かに到達するための手段のように思ってしまうこともあります。虚空のように、と言われると、何もない状態をつくろう、心を空っぽにしよう、と努めてしまうかもしれません。

けれども禅師は、虚空「のように」なれ、とは言っておられません。学ぶことが、そのまま虚空であると言われます。虚空は、何かをこしらえて到達する目標というより、さえぎるもののない広がりとして、いまここで学び、坐ることそのものと一つである。浮かぶ思いも、聞こえる音も、その広がりの中で、さえぎられることなく現れては去っていく。そう受けとめるとき、坐禅は、何か特別な状態をつくり出す努力ではなく、ただ坐ることそのものとして、より素直に行えるのではないでしょうか。ただし、これは本文が坐禅についてそう説いているということではありません。この一行を坐禅の場で味わうときの、一つの受けとめ方です。

また、日々の暮らしの中で何かを学ぶことにも、この言葉を重ねてみることができるかもしれません。何かを身につけようとするとき、私たちはしばしば、まだ足りない自分と、到達すべき目標とを分けて考えます。それ自体は自然なことですが、禅師のこの一行は、学んでいる、そのいまのいとなみが、すでに何ものにもさえぎられない広がりの中にある、ということに目を向けさせてくれるように思います。

般若の守護(【5】【6】)#

経文の流れ#

三つめの経文は、今回の中でもっとも長いものです(原文【5】)。宗務庁版英訳の注によれば、これも引き続き『大般若経』からの引用です。少し丁寧に、流れを追っておきましょう。

まず天帝釈が、仏に申し上げます。

「世尊、若善男子・善女人等、於此所説甚深般若波羅蜜多、受持読誦、如理思惟、為他演説、我當云何而為守護、唯願世尊垂哀示教」(原文【5】)。

もし善男子・善女人が、ここに説かれた甚深般若波羅蜜多を、受持し、読誦し、道理のとおりに思いめぐらし(如理思惟)、他の人のために説きひろめる(為他演説)ならば、わたしはどのようにして守護したらよいのでしょうか。どうかお示しください、と。

ここに挙げられた受持・読誦・如理思惟・為他演説は、経を身に受けてたもち、読み唱え、道理のとおりに思いめぐらし、人のために説く、という、経典を信奉する人の行いです。現代語訳の語注でも記したように、天帝釈は仏法を守護する神とされます。その天帝釈が、そのように経をたもつ人々を、どう守ればよいか、と尋ねているわけです。ただし、天帝釈が守ろうとしているのが、経をたもつ人々なのか、般若波羅蜜多そのものなのかは、字面には示されていません。宗務庁版英訳は、般若波羅蜜多を守る、という方向に訳しています。

これに対して、仏ではなく善現が、天帝釈に問い返します。

「汝見有法可守護不」(原文【5】)。あなたは、守護すべき法が有ると見るか、どうか。天帝釈は答えます。「不也。大徳、我不見有法是可守護」(原文【5】)。いいえ、わたしは、守護すべき法が有るとは見ません、と。

そこで善現は言います。もし善男子・善女人が「作如是説」、このように説くならば、甚深般若波羅蜜多がそのまま守護となる。もし「作如所説」、説かれたとおりに行うならば、甚深般若波羅蜜多は常に離れない。あらゆる人や人ならざるものが、すきをうかがって損なおうとしても、ついにできない、と(原文【5】)。

ここにも、読みの分かれるところがいくつかあります。「作如是説」「作如所説」の二つの句を、このように説く、説かれたとおりに行う、と区別して取るか、どちらも、このように語る、と取るか(→読みの分かれるところ。宗務庁版英訳は二か所とも、このように語る、と訳しています)。「常不遠離」は、般若がその人から離れない、ということか、その人が般若から離れない、ということか。「伺求其便」の「其」は、その人を指すのか、般若を指すのか。

「虚空を守護せんと欲するに異なること無し」#

そして善現の言葉は、次の一文で結ばれます。

「憍尸迦、若欲守護、作如所説、甚深般若波羅蜜多、諸菩薩者、無異為欲守護虚空」(原文【5】)。

この一文は、句の切り方がたいへん定まりにくいところです(→読みの分かれるところ)。現代語訳では、「若し守護せんと欲せば、所説の如く作せ」でいったん切り、「甚深般若波羅蜜多と諸菩薩とは、虚空を守護せんと欲するに異なること無し」と読みました。宗務庁版英訳も「所説の如く作せ」で切りますが、うしろを、菩薩たちにとって、甚深般若波羅蜜多を(守護しようと欲すること)は、虚空を守護しようと欲するのと異ならない、と取っています。さらに、「所説の如く甚深般若波羅蜜多を作す諸菩薩者を守護せんと欲せば」と、守護の対象を、般若を行ずる菩薩と取る切り方も考えられます。そう取れば、天帝釈の最初の問い、経をたもつ人々をどう守るか、に答える形になります。

どの切り方を取っても、最後に「虚空を守護せんと欲する」という言葉が置かれていることは変わりません。【3】で、般若は「虚空の如く」学ぶべきものとされていました。ここでは、般若を(あるいは般若を行ずる者を)守護しようとすることは、虚空を守護しようとするのと異ならない、と言われます。虚空は、さえぎるもののない空間です。それを損なうこともできず、また、外から囲って守る必要もない、と受けとめることができるでしょう。善現の問いかけ、「守護すべき法が有ると見るか」に、天帝釈が「見ない」と答えたことと、この結びの一文とは、響き合っているように読めます。ただ、現代語訳の語注でも記したとおり、その含みは現代語訳には補っていません。

現代語訳の読みに沿って、経文の筋をごく大まかにまとめると、こうなるでしょう。天帝釈は、経をたもつ人々(あるいは般若)を外から守ろうとした。けれども善現は、守るべき法を見るのか、と問い返し、経に説かれたとおりにするならば、般若そのものが守護となり、何ものもそれを損なうことはできない、守ろうとすることは虚空を守ろうとするのと同じだ、と答えた。

「受持・読誦・如理思惟、すなはち守護般若なり」#

この長い経文を受けて、禅師は、短く言われます。

「しるべし、受持・読誦・如理思惟、すなはち守護般若なり。欲守護は、受持・読誦等なり」(原文【6】)。

経文では、受持・読誦・如理思惟(・為他演説)は、善男子・善女人が般若波羅蜜多に対して行うことでした。そして守護は、天帝釈がそれをどう行えばよいかと尋ねた事柄でした。行う主体も、事柄も、経文では別々です。経をたもつのは人々であり、守るのは天帝釈です。

禅師は、この二つを「すなはち」で直接に結ばれます。受持・読誦・如理思惟が、そのまま「守護般若」である、と。天帝釈が外から守ろうとした般若の守護は、ほかでもない、経を受持し、読誦し、道理のとおりに思いめぐらす、その行いのことだ、と読むことができます(「守護般若」の語の取り方には幅があります。→読みの分かれるところ)。

ここでもまた、【2】【4】と同じ形の読みかえが見られます。【2】では敬礼の対象であった般若が敬礼そのものとされ、【4】ではたとえとして持ち出された虚空が学ぶことそのものとされました。【6】では、行いの「あと」に、あるいは行いの「外」から加えられるはずだった守護が、行いそのものとされている、と読めます。

「守護般若」という語の取り方にも、幅があります(→読みの分かれるところ)。般若を守護すること、と取ることもできますし(現代語訳はこの取り方で、宗務庁版英訳もこの方向です)、経文に「甚深般若波羅蜜多、即為守護」(原文【5】)、般若そのものが守護となる、とあることをふまえて、守護である般若、般若による守護、と取ることもできます。両方の意味が重ねられている、と見ることもできるでしょう。もし両方を重ねて受けとめるなら、受持・読誦・如理思惟は、般若を守ることであると同時に、般若に守られていることでもある、ということになります。行う人が般若を守り、般若が行う人を守る。そのどちらが先ということもない。ただし、これはこの語の読みの一つの可能性として挙げておくにとどめます。

「欲守護は、受持・読誦等なり」#

続く一句、「欲守護は、受持・読誦等なり」も、短い言葉です。

「欲守護」、守護しようと欲すること、は、経文の終わりの「若欲守護」「為欲守護虚空」に見える言葉です。経文では、それは天帝釈の願いでした。禅師は、その「守護しようと欲すること」が、受持・読誦などである、と言われます。経文では別の主体であった、天帝釈の守護の願いと、善男子・善女人の受持・読誦とが、ここで一つにされている、と読むことができます。一方で、「欲守護」を、守護しようと欲する者一般、と取る読み方もあります。

また、経文では四つ挙げられていた行いのうち、禅師の言葉では「為他演説」が挙げられていないことにも、気がつきます。「受持・読誦等」の「等」にそれを含めて読むこともできますが(現代語訳はそう取りました)、挙げられていないことにどのような意味を見るかは、本文からは決められません。

読誦ということ――弁道話とあわせて#

この【6】は、「受持・読誦」という言葉が正面から出てくるところですので、弁道話で読んだところと照らし合わせておきたいと思います。

弁道話では、問う人が、「読経・念仏は、おのづからさとりの因縁となりぬべし」(『弁道話』第三回)、読経や念仏ならおのずからさとりのきっかけになるだろう、と言っていました。それに対して禅師は、「ただしたをうごかし、こゑをあぐるを仏事功徳とおもへる、いとはかなし」(『弁道話』第三回)と厳しく言われる一方で、「経書をひらくことは、ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめんとなり」(『弁道話』第三回)とも述べておられました。弁道話の解説では、禅師の厳しい言葉が、読経そのものにではなく、「ただ」「いたづらに」「おろかに」と限定された行い方、すなわち、読経をそれだけでさとりの因として頼み、修行から切り離してしまう向きに向けられている、と読むことができる、と申しあげました。同時に、読経そのものを仏法から遠いとする読み方の手がかりもあることをあわせて見て、行そのものの位置づけについては、読みの幅を残しておきました。

今回の【6】では、禅師は、受持・読誦・如理思惟が、そのまま守護般若である、と言われています。ここでの読誦は、さとりを得るための手段として、あるいは功徳を積むための手段として語られてはいません。般若を守ることのために、何か別の行いが要るのではなく、受持し、読誦し、思惟すること、それ自体が般若の守護である、と言われている、と受けとめることができます。

弁道話の「教のごとく修行すれば」という言葉と、今回の経文の「作如所説」、説かれたとおりに行う、という言葉とが、どこか通じ合っているようにも感じられます。ただ、「作如所説」の取り方にはさきに見たように幅がありますし(→読みの分かれるところ)、二つの箇所を直接に結びつける言葉は本文にありません。ですから、ここでは、そのように並べて味わうこともできる、と申し添えるにとどめます。

どちらの箇所でも、禅師は読誦を、修行と切り離された別の功徳の道としては語っておられない、と受けとめることはできそうです。弁道話では、声をあげることだけを功徳と思うことが退けられ、今回は、受持・読誦・如理思惟がそのまま守護般若だと言われる。二つを合わせて読むと、経をたもち、読み、思いめぐらすことは、その行いそのものとして般若と一つである、という方向が見えてくるように思います。もとより、宗門の日々の行持の中で読誦がどのように営まれているかは、この段の本文から論じられることではありませんので、ここでは立ち入りません。

日々の暮らしのなかで#

ここでも一つの受けとめ方として、暮らしとのつながりを申し添えます。

私たちは、何か大切なものを、外から守ろうとします。家族を、健康を、暮らしを、そして信仰を。経文の天帝釈も、経をたもつ人々を、あるいは般若を、外から守ろうとしました。けれども善現は、守るべき法を見るのか、と問い返し、禅師は、受持・読誦・如理思惟そのものが守護である、と言われました。

経を手にとり、読み、その意味を思いめぐらす。毎日のそうした小さな行いが、何かを守るための準備や手段ではなく、そのまま守ることである。そう受けとめるとき、日々の行いを続けること、それ自体の重みが、あらためて感じられるのではないでしょうか。特別な守りの手だてを外に求めるのではなく、今日もまた、たもち、読み、思いめぐらす。その一つ一つが、般若を守り、また般若に守られていることなのだ、と。

坐禅もまた、同じように受けとめることができるかもしれません。坐禅を、何かを守るため、何かを得るための手段としてではなく、坐ることそれ自体として続けていく。弁道話の「修のほかに証をまつおもひなかれ」(『弁道話』第五回)という言葉は、この【6】の言葉とも響き合っているように思われます。

むすびに――経文を、行いの上で読む#

今回読んだ六つの段落を、あらためてふり返ってみましょう。

一つめの経文では、一人の苾蒭が、甚深の般若波羅蜜多を敬礼しようと念じました。禅師はそれを、「諸法を敬礼する」ことに言いかえ、生滅の無い般若がそのまま敬礼であり、まさに敬礼しているその時に般若が現成している、と読まれました。経文で「有り」とされた仏道の諸項目を「無」と呼び、その「無」の施設が「可得」である、という、読みの定まりにくい言葉も、そこに添えられていました(【1】【2】)。

二つめの経文では、般若は「虚空の如く」学ぶべきだ、と言われていました。禅師はその「如」を外して、学般若がそのまま虚空であり、虚空がそのまま学般若である、と言いきられました(【3】【4】)。

三つめの経文では、天帝釈が、経をたもつ人々を(あるいは般若を)どう守るかを尋ね、善現が、守るべき法を見るのかと問い返し、般若そのものが守護となる、守ろうとするのは虚空を守ろうとするのと異ならない、と答えました。禅師はそれを受けて、受持・読誦・如理思惟が、そのまま守護般若である、と言われました(【5】【6】)。

三つの拈提をならべてみると、そこには一つの共通した向きが見えてくるように思われます。経文の中では、行う人の「向こう側」や「外」に置かれていたもの――敬礼される般若、たとえとして持ち出された虚空、外から加えられる守護――を、禅師は、敬礼すること、学ぶこと、受持・読誦すること、という行いそのものの上に重ねて読んでおられます。前回の段落で、照見がそのまま般若であり、行・住・坐・臥がそのまま四枚の般若であったのと、同じ方向の読み方だと言えるでしょう。

もちろん、ここで述べたことは、一つの読み方にすぎません。今回の拈提は、どれも短く、語句のつなぎかえによって成りたっていて、文の組み立てそのものに幅のあるところが少なくありません(→読みの分かれるところ)。本書では、それらのどれか一つを唯一の正解とはせず、読みの幅を残しておきました。

それでも、経文の言葉を、それを読む者自身の行いの上で読みなおす、という禅師の姿勢は、私たちにも開かれているものだと思います。経を読むとき、その言葉を遠い昔の、どこか別の人の話として読むのではなく、「而今の一苾蒭」、いまここで手を合わせ、坐り、経を読む自分の身の上のこととして読む。禅師が経文を拈提されたこのやり方は、私たちが経や祖録に向かうときの姿勢そのものを、静かに示してくれているように思われます。

この巻は、次の段落で、本師如浄禅師の偈、「渾身似口掛虚空」を引いていきます。今回、二つの経文で「虚空」の言葉が出てきたすぐあとに、先師の言葉――宗務庁版英訳の注によれば「風鈴頌」と題された偈――が、虚空の語をもって置かれていることにも心をとめながら、次の回を読んでいきましょう。

読みの分かれるところ#

この回の拈提は、経文の語句を切り出して組みかえる言い方が中心で、文の組み立てそのものに幅のあるところが少なくありません。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。

  1. 「而今の一苾蒭」【2】
    「而今」を「いま、ここの」と取れば、経文の中の昔の一人の比丘が、いまここにいる一人の修行者として取りあげられていることになります。一方で、「いま引いた(経文の)この」という指示の意味に取ることもできます。宗務庁版英訳は、後者の方向で訳しています。

  2. 「一苾蒭の竊作是念は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅の般若、これ敬礼なり」【2】
    主題の「竊作是念は」がどこで受けとめられるかに幅があります。苾蒭の念いがそのまま(生滅の無い)般若である、と読むことも、念いがそのまま敬礼である、と読むこともできます。また、「竊作是念は、諸法を敬礼するところに」を「苾蒭が諸法を敬礼しようと念ずるところにおいて」と一続きに取り、「雖無生滅の般若、これ敬礼なり」を主な文とする読み方もあり、宗務庁版英訳はこの形で訳しています。「雖無生滅の般若」も、「雖無生滅」という句で言われる般若と取るか、生滅は無いけれども(それでもある)般若と取るかで、響きが変わります。

  3. 「これを無といふ。無の施設、かくのごとく可得なり」【2】
    「これ」が指すのは、直前の戒・定・慧から度有情類までの列挙とも、施設可得の般若とも、敬礼とそこに現成する般若の全体とも取れます。「無」も、経文の「諸法の生滅無し」の「無」の言いかえと取るか、「有」と「無」の対を超えたものとして名づけた語と取るかで読みが分かれます。宗務庁版英訳の注は、列挙を「生滅する法は無い」と性格づけている、という前者の方向に取り、続く句については、禅師が「施設可得」を「施設」と「可得」に分け、「無」を施設されるものとしている、と説明しています。「無の施設」を、無を仮に立てることと取るか、施設そのものが無であることと取るかにも幅があります。

  4. 「當如虚空学」【3】と「学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり」【4】
    経文の「虚空のように学ぶ」は、般若を虚空のようなものとして学ぶとも、学ぶ者が虚空のように、とらわれなく学ぶとも、虚空が何ものをも拒まずにあるように学ぶとも取れます。宗務庁版英訳は、第一の方向に近く訳しています。禅師の拈提の「学般若」も、般若を学ぶという行いと取るか、学ぶことである般若と取るかで幅があり、宗務庁版英訳は前者に取っています。前の句の「これ」と後の句の「は」の言い分け、前後を入れかえて重ねて言うことに、意味の違いを見るかどうかも、読む人に委ねられています。

  5. 「作如是説」「作如所説」【5】
    「作如是説」を「このように説く」と取り、「作如所説」を「説かれたとおりに行う」と取って、二つの句を区別して読むことができます。一方で、二つとも「このように語る」と取ることもでき、宗務庁版英訳は【5】の前半の二か所をそう訳しています。ただし同じ英訳でも、経文の終わりの「若欲守護、作如所説」は「説かれたとおりにせよ」に近く訳しており、同じ句の訳し方が箇所によって分かれています。

  6. 「憍尸迦、若欲守護、作如所説、甚深般若波羅蜜多、諸菩薩者、無異為欲守護虚空」【5】
    句の切り方が定まりにくい一文です。現代語訳は「若し守護せんと欲せば、所説の如く作せ」で切り、「甚深般若波羅蜜多と諸菩薩とは、虚空を守護せんと欲するに異なること無し」と読みました。宗務庁版英訳も同じところで切りますが、うしろを「菩薩たちにとって、甚深般若波羅蜜多を守護しようと欲することは、虚空を守護しようと欲するのと異ならない」と取っています。さらに、「説かれたとおりに甚深般若波羅蜜多を行ずる菩薩たちを守護しようと欲するなら」と、守護の対象を菩薩と取る切り方も考えられ、そう取れば天帝釈の最初の問いに答える形になります。

  7. 「守護般若」【6】
    「般若を守護すること」と取るのが素直な読みで、現代語訳も宗務庁版英訳もこの方向です。一方、経文に「甚深般若波羅蜜多、即為守護」(般若そのものが守護となる)とあることをふまえて、「守護である般若」「般若による守護」と取ることもできます。両方の意味が重ねられていると見れば、受持・読誦・如理思惟は、般若を守ることであると同時に、般若に守られていることでもある、という受けとめ方になります。

参考#

  • 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第二「摩訶般若波羅蜜」
  • 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. I(Sōtō Zen Text Project、2023)
    • 引用された経文の出典(『大般若経』)と語句の説明、本巻の構成についての説明と、「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注・解題によります。